研究者インタビュー

「令和の米騒動」を機に価値の転換を

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宮城教育大学 教育学部 准教授
山内 明美 先生

小学6年で実家の田を一枚任された

 私は社会や思想の歴史について、稲作との関係を中心に研究しています。さて皆さんは、「自分が食べる分の米は自分で作れ」と言われたらどうしますか? 私は宮城県南三陸町の農家の生まれです。南三陸は海のイメージが強いかもしれませんが、実家は山の方で、私が子どもの時は主に稲作で生計を立てていました。私が父から「自分が食べる分の米は自分で作れ」と田んぼを一枚割り当てられたのは、小学6年の時です。三角形の小さな田で、機械を入れることができない手間のかかる田なので、子どもに任せてみようと思ったのでしょう。

 「自分の田んぼ」を得た私は、張り切って米作りを始めました。丸一日かけて鋤(すき)で田を起こし、田植えも草取りも稲刈りも手作業ですから大変です。いちばん難しかったのは水の管理で、早起きして水を入れ始めたまま止め忘れ、何度も田から水があふれて稲を水没させました。草取りも追いつかず、私の田だけが草ぼうぼう。それでも秋には150kgの収穫があって、私一人が1年間食べるには十分な量でした。

 東京で大学に通った時期を除いて、今も私はその田を作り続けています。現在は実家とは別に南三陸に住まいがあり、その近くにも田を一枚購入しました。週末に通っていますが、この猛暑で草取りが追いつかないのが悩みです。

 実家の農業は弟が継いで、今は「仙台牛」のブランドで知られる肉牛の生産が中心です。私が子どもの時も15頭ほど飼っていましたが、現在はおよそ200頭を世話しています。弟はBSE(牛海綿状脳症)と口蹄疫の対応に追われ、ようやく立ち直りかけたところで、東日本大震災と東京電力福島原発の事故に襲われました。出荷の停止、価格の暴落があり、今もBSE、口蹄疫、放射能の三重チェックを強いられています。新型コロナの広がりによる外食産業の低迷、輸入に頼る飼料価格の高騰などなど、稲作以外も農業は本当に大変です。

 昨年から続く米の販売価格の高騰と供給不足への懸念は、「令和の米騒動」という言葉を生みました。この事態が都市の消費者に、農業の現状へと目を向けさせたことは確かです。しかし「備蓄米を安く放出すれば良い」「海外から輸入すれば良い」「米の生産を抑制してきた政策を変更してもっと作らせれば良い」といった声は圧倒的に大きく、農家の苦労が報われたり、将来への不安が解消されたわけではありません。

「平成の米騒動」の経験は活かされなかった

 「米騒動」という言葉は、一般的には1918(大正7)年に米価が高騰したときのことを指します。富山県の漁村の女性たちが起こした運動が全国に広がり、米穀商や精米会社が襲われるなどの暴動に発展しました。当時の寺内内閣は軍隊まで出動させ、これを抑えます。「大正デモクラシー」で民主的な思想が広がりを見せていた日本ですが、その後は第一次世界大戦後の深刻な不況や関東大震災(1923年)を経て、軍国主義へ、そして国内の米不足を東アジアの植民地化で解決しようとする国へと変わっていきます。

 「平成の米騒動」を覚えているでしょうか。冷夏と日照不足による凶作で、タイなどから米を緊急輸入した1993(平成5)年のことです。平年を100とし、90以下が「著しい不良」とされる作況指数が全国で74、宮城県では実に37でした。私の実家では一反(約10アール)で約600kgの米が収穫できますが、この年はたった20kgでした。高校生だった私にとって「飢饉」という言葉は遠い昔の話ではなく、切実に自分の身に起きた出来事でした。これがのちの研究テーマへとつながることになります。

 「平成の米騒動」の経験は、その後に活かされたとは言えません。私は大学や大学院で学ぶ中で、あの凶作が天候不順だけで起きたのではないことを知りました。たとえば私たちの集落ではほぼ全ての田で、当時人氣だったブランド米「ササニシキ」を作っていました。令和の時代になり、まさかこれほどまで深刻な「飢饉」が起きるとは想像もしていませんでした。こうした背景には、資本主義という経済システムがもたらした社会的構造の困難が影響しています。

 一方、日本が大量の米を輸入したことからアジア全体で米の価格が急騰し、当時はまだ途上国だった国々に大きな打撃を与えました。今でも途上国では、食糧の不足や作物の不作によって多くの方が飢餓で亡くなっています。しかし今後は同じようなことが、少子高齢化と人口減少が急速に進み、経済の行き詰まりが明らかな私たちの国でも起こらないと、誰に断言できるでしょうか。

 世界的には人口が増え続けていますし、天災や戦争も収まる氣配がありません。地球上で、土壌や水資源に恵まれ、トウモロコシ、小麦、米などの栽培に適した土地は限られています。種子の開発や穀物の取引・販売などを独占する多国籍の巨大商社を「穀物メジャー」と言いますが、そのレベルでは主要穀物の争奪戦が、すでに始まっているのです。このたびの「令和の米騒動」を機に、「日本はもう先進国ではない」という認識で私たちの価値観を転換し、食糧政策や産業構造などを根本から考え直すべきだと私は思います。

〈東北〉に学ぶことで持続可能な未来を

 後進国だった日本は明治維新後、近代化を急ぎ、近隣諸国と争い、朝鮮半島や台湾を支配しました。日本が植民地を必要とした大きな理由は食糧不足です。それまで大量の米を輸入していた東アジアを植民地にすることで、現地の労働力や資源を収奪し、現地の在来種ではなく、日本品種を持ち込んで広げたりもしました。

 その後は第二次世界大戦の敗戦、朝鮮特需等を経て先進国の仲間入りをします。工場を続々と建設し、その工場には質が高く長時間労働をいとわないたくさんの労働者を育成して、東北をはじめとする地方から集団就職などで集めました。

 そして工業に加えて農業でも、技術開発が盛んに進められます。植民地を失って深刻な食糧不足に陥った日本は、今度は東北や北陸を広大な稲作地帯へと変えていきました。稲はもともと熱帯の植物ですが、品種や土壌の改良といった極めて高度な近代農業技術によって、寒冷地での栽培を実現します。それは血のにじむような努力の積み重ねでした。「日本は主食の米を自給できる」とか「米どころ東北」という現代の常識は、実は1960年代以降に確立されたのです。

 かつて地方農村の多くの地域では、米は特別なときの食べ物でした。普段はわずかなコメに大根やカブ、アワやヒエなどを混ぜたカテ飯や、ソバなどで自足していました。焼き畑がさかんな地域ではカブが主食という集落も少なくありませんでした。北海道から沖縄まで、気候のことなる津々浦々の土地柄で、食は実に多様だったのです。やがて、資本主義経済のなかで「米が主食」の生活に馴染んでいきます。また品種改良の努力が報われ、収量と食味が大きく向上したことで、徐々に「日本人の主食である米の生産を担っている東北」というメインストリームの自画像を誇りとするまでになったのです。

 しかし高度経済成長以後、農家の経営は米が余るようになり、価格が低迷したことで行き詰まります。東日本大震災と連動した東京電力福島原発の事故の発生は、東北地方の穀倉地帯化と無縁ではない、近代技術と結びついています。東北地方で稲作を推進するためには、土壌改良のための化学肥料が必要であり、こうした化学肥料を製造するには、膨大なエネルギーを必要とします。東北地方が穀倉地帯化していった経緯を低開発化とする議論は今も圧倒的ですが、そうではなく、実は極めて高度な近代農業技術によって成立していたと考えるべきだと思います。そういう意味では、地方に原発が置かれることもまた、近代技術の実験地としての役割もあるでしょう。福島第一原子力発電所の電力は東京都民が使用する電気を福島でつくっていたという事実については、みなさんも周知の事実と思います。こうした社会構造を背景に、私は〈東北〉を考えてきました。農業や漁業はエッセンシャルワークと呼ばれます。近代家族の中で家事・育児・介護を担ってきた女性と同じように生存基盤を支える極めて重要な役割を担ってきました。しかし、資本主義経済がこれらを置き去りにしてきた趨すう勢せいを見直さなければ、新たな「飢餓」がやってくると思います。それが人災だということを、令和の米騒動のなかで知ってほしいと思います。

(取材=2025年8月18日/宮城教育大学 3号館4階 社会科教育実験実習室にて)

研究者プロフィール

宮城教育大学 教育学部 准教授
専門=歴史社会学・社会思想史
山内 明美 先生

《プロフィール》(やまうち・あけみ)1976年宮城県生まれ。慶応義塾大学環境情報学部卒業。一橋大学大学院言語社会研究科修士課程修了。学術修士。同研究科博士課程単位取得満期退学。福島県立博物館勤務、宮城大学特任調査研究員、大正大学人間学部特命准教授、同地域構想研究所客員教授などを経て、2018年より現職。著書に『痛みの〈東北〉論―記憶が歴史に変わるとき―』、『こども東北学』、共著書に『忘却の野に春を想う』『「辺境」からはじまる―東京/東北論―』など。

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