参加体験記

【川崎町・上廣歴史文化フォーラム】仙台藩の境目番所~街道に設けられた藩境の重要施設~

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日時 令和7年5月24日(土)13:00~16:00
講師 石井亜希子氏(川崎町歴史友の会)、及川謙作氏(仙台市文化財課)、
   高橋正雄氏(元七ヶ宿町水と歴史の館館長)、菅野正道氏(郷土史家)
場所 川崎町山村農村開発センター3階 YouTube でライブ配信あり
主催 川崎町、川崎町教育委員会、川崎町文化財保護委員会

 毎年開催されているフォーラムです。会場参加もしましたが、最近はYouTubeのライブ配信を利用しています。今回は仙台藩に全部で27カ所あった境目番所、特に川崎町周辺の境目番所が中心テーマです。
 前半は、各論的に、石井氏が笹谷番所、及川氏が秋保・二口番所、高橋氏が七ヶ宿街道の番所、桑折・湯ノ原・上戸沢番所について、最後に菅野氏が総論的に仙台藩の境目番所について講演されました。
 各論では、番所に交代勤務となった役人の日記からうかがえる番所事情、遺跡発掘調査を専門とする講師の番所遺跡の話、参勤交代路などに利用されていた街道、という切り口からの境目番所の様子を知ることができ、興味深い話となりました。
 境目番所は関所と同様の目的、役割をもちますが、関所は幕府が設置したものです。菅野氏は箱根の関所のような幕府の施設とは少々イメージが異なるとし、幕府以外の藩境の番所は軍事や治安という目的はそれほど必要ではなかったとします。
 仙台藩でも、軍事的目的や治安上の役割は薄く、経済的目的(物資の統制、物流のチェック機能)を主な目的となっていたとします。
 境目番所27カ所のうち6カ所(相去、駒ヶ峰、越河、上戸沢、湯ノ原、笹谷番所)は伊達家の家臣が直接その任務に当たった重要な番所です。南部藩や山形藩等との境を接する重要な番所には有事の際に対処するための軍事体制は整えていたものの、争いはなかったそうです。
 物資の移動や人の往来についても厳格に取り締ったということでもなかったようです。「境目止めもの」を定め、藩外へ持ち出す品、藩内へ入れる物などについて規制していました。規定は作ったが現実にはそのとおり運用していなかったと菅野氏は付け加えます。
 仙台藩では境目番所は藩境の山の中にではなく、近くの宿場町に設置していました。山間地の境目番所を維持するため、番所が設置されていた宿場町に対して藩は住民が定着できるように配慮し、要員の確保しやすいような政策をとっていました。例えば、収入の少ない住民を足軽身分で雇い、給金として生活助成金を与える等です。
 奥羽地方の日本海側の諸大名・青森、秋田、山形の13大名が七ヶ宿街道を参勤交代路として利用していました。その理由として高橋氏は峠の標高が最も低い(金山峠623m)こと、仙台藩領を通る距離が短かく、かすめる形で済むからとしています。この街道は日本海側から太平洋側へ天領の城米輸送の陸路としても使われ、阿武隈川を経て荒浜へ、そして東廻海運により米俵が江戸へ運ばれました。一方、逆の流れとしては出羽三山詣のため多くの人がこの街道を利用しました。
 江戸時代、特に後半になると旅ブームも起こり、お伊勢参りなど人の往来や物資の動きが活発になったことが知られています。境目番所の役割もそうした動きを監視、規制しつつ、物資輸送を支援する機能も持っていたようです。
 フォーラム終了後、菅野氏紹介の図書、高倉淳著「仙台道中物語」を読んでみると、仙台藩内の街道や歩く旅の時代の人々の旅事情、大名の参勤交代などについても理解が深まります。仙台藩の境目番所についてとりまとめた文献資料はまだなく、整理検討すべき事項も残っているそうです。今後の調査の進展とその成果を拝聴する機会が訪れることを期待したいところです。

(仙台市 島田昭一)

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