東北大学大学院 国際文化研究科 教授
映画なら他人の視点を「体験」できる
私が所属する国際文化研究科は、1993年、他の国や地域の言語・文化・歴史を学び、国際的な交流や協力について研究することを目的に発足しました。私の専門は主にフランス文学と映画論ですが、当科に所属する研究者の専門領域はきわめて多彩です。たとえば私を含む「地域文化研究系」には、いわゆる「外国」だけでなく「現代日本メディア・ジェンダー研究」「日本宗教・思想史研究」の研究室もあって、多くの外国人留学生を受け入れてきました。また、言語学、国際政治経済、環境と資源、そして多文化共生の研究室もあります。
当科では2010年から、学外の方々にも公開して、映画の上映と関連する講演を行う「不可視の隣人たち」というプロジェクトを毎年開催してきました。初回の上映作品は札幌市にある朝鮮学校を描いた『ウリハッキョ』というドキュメンタリーで、題名は「私たちの学校」という意味です。韓国から来た留学生に上映会を持ちかけられたことがきっかけで、最初は私の手作りのような形で始まりました。ところが100名ほどの参加者があり、講演も好評、その後の質疑も活発だったのです。これは意義の大きい事業だということで、その後は企画や運営に当科の他の先生方にもご参加いただいて現在に至っています。
今年までの過去4回は、新型コロナウイルスの影響でオンラインにせざるを得ませんでした。しかし来年からは、会場での開催に戻す予定です。映画は暗いところで、大きな画面で、皆で一緒に鑑賞することによって「共に見る夢」になります。多くの人が、たとえ擬似的だとしても「同じ体験」ができる映画だからこそ、他の国や地域の文化を知り、国際関係や多文化共生について考えるための、良き入口となるのです。
「不可視の隣人たち」というタイトルは、同じまち、国、星に暮らす「隣人たち」が見えていますか、という問いかけを含んでいます。私たちはテレビのニュースやネットで毎日膨大な情報に触れていますが、実はその多くが、限られた視点からのものに過ぎません。そのため私たちは、他の国や地域に暮らす人々、あるいはそうしたルーツを持ちながら離れた土地で生きる人々に対して、無知や無神経になりがちなのです。
そうした人々の視点を、映画を通して体験することは、「他人の皮膚の中に身を置く」ことだと言っても良いでしょう。これは世界を捉え直すとともに、「私たち自身」をも捉え直すことにつながるのです。
小津安二郎の映画をパリで見る
私が関わっている上映会をもう一つ。フランス語学校であり、フランス文化センターでもある「アリアンス・フランセーズ」をご存じでしょうか。1883年に設立され、現在は世界中で1,000校以上が活動しています。日本では1887年(明治20年)以来の歴史があり、仙台には1985年に開設されました。
私は妻と共に、このアリアンス・フランセーズ仙台で「シネ・クラブ」という催しの講師を務めています。フランスで作られたりフランス語が用いられている映画をめぐって参加者と語り合う会です。共に映画を楽しみ、またフランスの文化を学べる良い機会にしていただけるはずです。現在は隔月で開催していて、会員でない方も参加できますので、ぜひお出かけください。
私は高校時代までを島根県出雲市で過ごしています。小学生の時からテレビの洋画放送を親以上に熱心に視聴し、映画の面白さを知りました。高校生になると映画館で主に洋画を見るようになり、大阪大学に入ると、新作を少し遅れて上映する「二番館」や、過去の名作を上映する「名画座」に通い詰めます。もう「映画が三度のメシより好き」という状態でしたね。
フランス文学には高校生の時から関心を持ち、大学院にも進んで、詩人のロートレアモン(1846〜1870)を研究します。彼は無名のままパリで24歳で亡くなり、フランスでも長く埋もれた存在でした。しかし自費出版した長編詩『マルドロールの歌』が20世紀になって高く評価され、フランスから世界に広がった芸術運動であるシュルレアリスム(超現実主義)の先駆者として知られるようになります。この詩の一節である「解剖台の上のミシンとコウモリ傘の出会いのように美しい」という言葉は、前衛芸術を愛好する人たちの間で特に有名になりました。
博士課程後期の最後の年、パリの東にあるナンシー市のナンシー第2大学に1年間留学します。ここには芸術系の映画をかける良い映画館があって、欧米・中東の作品を多く見ることができました。大阪に戻ると助手の仕事が得られたため、博士号はまたフランスに行って取ろうと、大学院は満期退学します。
2年半の後、再びフランスに戻りますが、住まいはパリ近郊に移しました。研究に必要な資料が豊富だったことと、妻がパリ第8大学に通っていたからです。パリは映画館が多い上に上映作品の幅が広かったため、フランス語の字幕がついた日本映画もたくさん見ることになりました。たとえば小津安二郎(1903〜1963)の作品が、探せばどこかでは上映していたほどです。
「共に見る夢」をぜひ映画館で
フランス滞在中の1998年、カナダのモントリオールで、国際ロートレアモン学会のシンポジウムが開かれました。この詩人の影響を受けた、表現者や表現がテーマです。日本人だと誰だろうと考えて、寺山修司(1935〜1983)に思い至りました。ロートレアモンの代表作『マルドロールの歌』を、そのままタイトルにした中編映画を大阪で見ていたからです。
寺山は前衛的な歌人、詩人、劇作家、劇団主宰者などなどです。映画監督としても、『田園に死す』といった前衛的な作品を数多く残しました。その映画『マルドロールの歌』は元の詩との関連はそれほど強くないのですが、その一節を示した画面が次々と書き換えられ、ついには寺山の短歌になってしまうなど、非常に刺激的な作品です。シンポジウムでの発表を機に、文学から映画へと「橋を渡す」、私の新たな研究が始まりました。
博士論文を書き上げて帰国してからは関西のいくつかの大学でフランス語を教え、その後本学に着任します。文学作品に加え、それを翻案した映画をあわせて論じる研究を続ける中で、私は映画が文学とは別に持つ独自の価値や、“原作”と翻案映画の「意味作用の力関係」についての考察を深めることになりました。
単なる「“原作”とその映像化」ではない例として、同国人の作家モーパッサン(1850〜1893)の短編小説「野あそび」をもとに、フランスの映画監督ジャン・ルノワール(1894〜1979)が撮った『ピクニック』という中編映画を取り上げてみましょう。モーパッサンは『脂肪の塊』や『女の一生』で知られ、日本の近代文学にも大きな影響を与えました。一方のジャンは、印象派の画家オーギュスト・ルノワール(1841〜1919)の次男です。『大いなる幻影』『ゲームの規則』などが有名で、第二次世界大戦中に米国に亡命し、同地で亡くなりました。
「野あそび」には、パリから田舎へ出かけた一家のうち、年頃の娘がブランコに乗る場面があります。これを『ピクニック』では、まさに映画ならではの手法で見事に描きました。ペチコートを履いた両脚をあらわにしてブランコを楽しむ娘のカットの間に間に、これに見とれるボートに乗る地元の男たち、村の悪童たち、さらには通りがかりの神学生らのカットがはさみ込まれます。これによって女性の無自覚なエロティシズムと、それに翻弄される男性の「欲望する視線」が交差する空間を、観客はリアルに認識することができるのです。思わず目を向けた神学生たちを先生がとがめる風刺的なカットにも、つい笑ってしまいます。
小説の魅力とは物語の魅力です。人間にとって物語は太古から親しく、また欠かせない知的営為でした。一方の映画ははるかに短い歴史しか持ちませんが、思うに物語の価値とは別の、「夢-中な時間」の感覚を味わう芸術として展開してきたのです。
私たちがイメージする「映画」を世界で初めて作ったのは、フランスのリュミエール兄弟です。駅のホームへと疾駆し近づいてくる列車を撮影しただけの、30秒ほどの1895年のその映画は、観客全員を大慌てさせたそうです。皆さんにも、しばらくデジタル端末の画面から離れて映画館に足を運び、居合わせた他の人々と「共に見る夢」を楽しみ、テレビやPCの画面では捉えきれない「夢-中な時間」を味わっていただきたいと願っています。
研究者プロフィール
専門=フランス文学・映画論
《プロフィール》(てらもと なるひこ) 1961年島根県生まれ。大阪大学文学部卒業。同大学院 文学研究科博士課程前期修了。博士課程後期課程 単位取得満期退学。ナンシー第2大学(フランス)第3期課程修了。文学修士(大阪大学)。博士(文学)(ナンシー第2大学)。大阪大学文学部助手、東北大学大学院 国際文化研究科准教授を経て、2012年より現職。「アリアンス・フランセーズ仙台」シネ・クラブ担当講師。
共著書に『近代日本とフランス象徴主義』、訳書にレイラ・ペロネ=モイセス/エミール・ロドリゲス・モネガル『ロートレアモンと文化的アイデンティティー―イジドール・デュカスにおける文化的二重性と二言語併用』、共訳書にアントワーヌ・ド・ベック/ノエル・エルプ 『エリック・ロメールーある映画作家の生涯』(2024年12月刊行予定)など。