研究者インタビュー

住民と生態学者が共に考えた復興

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東北学院大学 地域総合学部 教授
平吹 喜彦 先生

中国で震災を知り急いで帰国

 故郷の山形では子どもの時、ずっと野外で遊んでいました。生物担当の高校教師だった父の影響もあって虫や草花の採集も大好きで、高校では生物部に入ります。大学と大学院では森林などの調査に没頭し、そのまま研究者になりました。

 生物と環境の関係を総合的にとらえる「生態系」という言葉はよく知られています。その仕組みを研究する「生態学」も聞いたことがあるでしょう。しかしその一分野で、私の専門である「景観生態学」には、あまりなじみがないかもしれません。

 景観は風景とほぼ同じ意味ですが、景観生態学ではそれが形成された過程や、人や社会にとってどのように機能しているかを深く多角的に調べます。そして、その結果に基づいて土地の利活用を考え、暮らしや産業に役立てようとするのです。もちろん開発計画を中止したり変更したりすることもあり得ます。

 景観生態学では現地調査が欠かせないため、私も国内外で各地を回ってきました。とはいえ沿岸部や海岸林への関心が特に強かったわけではなく、むしろやや標高の高い丘陵地などを主に研究していたのです。その一環として、東日本大震災が発生した2011年3月11日、私は中国にいました。

 仙台をたったのは数日前です。雲南省の省都である昆明(クンミン)で中国側の研究者に迎えられ、日本側メンバーと合流して、そこからさらに山あいの集落に入って調査する計画でした。ところが昆明にいた3月9日、宮城県で震度5を観測する地震が起きたことを知ります。あわてて仙台の自宅に電話しましたが、「心配しなくてよい」とのことでした。

 それならばと奥地に入ったのですが、11日、調査を終えて間借りしていた農家に戻ると「日本が大変だ」と告げられました。その家のテレビは、数日前に利用したばかりの仙台空港に津波が押し寄せる画像を映し出しています。呆然としながら、一刻も早い帰国を決め、準備を進めました。

 翌日に昆明へ戻り、日本側メンバー一同、その次の日に関西国際空港に飛ぶことができました。機内で配られた新聞の一面記事は、東京電力福島第一原発の炉心溶融です。「日本は大混乱だろう」と覚悟しましたが、表向き、大阪の街は意外にも平穏でした。新幹線と在来線でその日のうちに、調査メンバーが居住する千葉に到着します。幸いその先生の車にはガソリンが十分入っていたため、一般道を北上していただき、14日の午後に仙台に戻ることができました。

驚異的だった生態系の自律的な再生

 しばらくはショックで、沿岸部に行ってみようとはまったく思えませんでした。宮城県や仙台市の自然環境保全に関する委員をしていたので、基礎調査で訪れた経験はあります。しかし沿岸は自分の主な研究対象ではなかったため、土地勘があるのは、仙台湾岸のうち七北田川河口から名取川河口にかけての地域だけでした。津波災害の研究歴をお持ちの同僚の誘いでその地を訪れたのは、1カ月以上が経ってからです。状況はテレビや新聞で見ていた以上にすさまじく、農地も集落も松林も、がれきと泥で埋め尽くされ、消失した砂浜もありました。

 5月になり、研究者として生き物や生態系の調査をしないわけにはいかない、と思うようになりました。がれきの片付けで大型車両が行き交う中、邪魔にならないよう早朝に出かけるなど工夫したつもりです。しかし復興にも有益な調査であると確信していても、工事の方々や避難所で暮らす方々には「人間よりも植物か」と思われて当然で、本当に心苦しい日々でした。

 一方で大きな喜びも感じました。泥や砂の中に緑を見つけたからです。たしかにマツなど高木の多くは、折れたり、倒れたり、根こそぎ流されたりしていました。しかし低木や草はあちこちで生きていて、次々に芽吹き、開花したのです。昆虫もいて、驚異的な生態系の再生力に圧倒されました。

 全国の研究者仲間からは「行って調査に加わりたいが、現地でどう思われるだろう」という問い合わせがずっとありました。夏以降はためらわずに、「被災の実態を五感で感じ取れる今のうちに来てほしい」と答えました。それに復旧工事が本格的に始まってしまうと、現地には入れなくなると思ったのです。

 防潮堤や海岸林、農地の大規模復旧工事は各所で次々に始まり、ものすごい速さで進みました。「スピード感のある復興」というスローガンのもと、がれきを撤去した海辺の多くは整地され、工事用道路が通り、資材置き場が設けられ、大量の土石とコンクリートが運び込まれました。かろうじて生き残ったり、戻り始めた小さな生き物たちは、ひとたまりもありません。

 国や県や市が工事を急いだのは、一刻も早く平穏な日常を取り戻すためだったことは明白ですが、予算の執行期限という制約もあったのでしょう。「創造的な復興」や「未来志向の復興」という旗印の下、ふるさとの生き物や自然環境の保全・利活用に徐々に目が向けられたとはいえ、残念な出来事が少なくありませんでした。車座になっての話し合いやちょっとした工夫が、もっとあってもよかったと思います。

市民と研究者の協働で「次」に備える

 仙台平野を縁取る砂浜海岸では、防潮堤の建造に続いて、その内陸側に、海岸「防災」林をやはり途切れなく、またもっと広い幅で造成する基盤盛り土工事が行われました。植樹に先立ち、丘陵地から大量の土石が運び込まれ、平坦に成形された立地が画一的に造成され続けたことは、今でも残念でなりません。強く締め固められた粘土質の盛り土は、水はけが悪く、海辺に適したクロマツでさえ育ちにくく、また回復しつつあった自然を覆い尽くさんばかりの広がりでした。そして、外来植物やクズの爆発的な繁茂を促したのです。

 もちろん復旧工事を担当する行政部局が、私たちの調査報告や提案を尊重してくれた事例も少なくありません。仙台市の新浜(しんはま)地区は、それらが集積する貴重な海辺のひとつで、さまざまな自然環境保全対策の検証を含めて、生態系の変化が継続して調査されています。さらにここでは、住民主体の復興まちづくり活動との強い結びつきも醸成されてきました。

 調査中のある日、私は新浜町内会の方から声をかけられます。海辺で何をしているのか、なぜここだけ防潮堤工事が始まらないのか、と言うのです。緊張しながら調査の意義を懸命に説明すると、意外にも幼少の頃から接してきた動植物のことや、海岸林の思い出を語ってくださいました。

 こうして地元の方々との交流が始まりました。その中で私たちは、お伝えした専門的な調査結果以上の、貴重な情報をいただくことができたのです。400年以上にわたって持続してきた新浜で、海辺ならではの生物資源や災害リスクにかかわる伝統知の再認識や先祖の苦労への感謝、地域に対する誇りなど、心のうちの深い言葉に触れることができたのです。

 震災後はどうしても、スケジュールありき、予算ありきの「上からの復興」になりがちでした。しかし新浜では早くから町内会を中心に復興まちづくりが議論され、2013年には住民が主体となって基本計画を策定しています。急ぎ過ぎず、その土地の自然と歴史を活かした新浜の復興のあり方は、「次」の災害に備える事前復興の取り組みに、大いに参考になるはずです。

 歴史学が専門の同僚など幅広い研究者や新浜の皆さんが調査・実践に加わってくれるようになって、取り組みはさらに活発になりました。2015年には、成果や提案を広く市民の方々に知っていただくプロジェクトが立ち上がります。現地や本学で学習会を開催したり、本学や仙台市若林図書館でパネル展示を行って、その内容を冊子や書籍などにまとめてきました。

 私たち研究者は説明の際、つい専門用語を多用しがちです。その言葉をめぐる研究の蓄積があり、正確を期すためですので、どうかご理解ください。よければ私たちの「南蒲生/砂浜海岸エコトーンモニタリングネットワーク」のホームページをご覧いただき、「里浜」「エコトーン」「生態系レジリエンス」といったキーワードを、震災や復興に関する知識に加えていただければ幸いです。市民の皆さんが、沿岸被災地での暮らしや生態系に関心を持ち続けてくださることを、心から願っております。

(取材= 2023年11月20日/東北学院大学五橋キャンパスシュネーダー記念館9階 環境試料分析室にて)

研究者プロフィール

東北学院大学 地域総合学部 教授
専門=景観生態学・持続を可能にする教育
平吹 喜彦 先生

《プロフィール》(ひらぶき・よしひこ)1957年山形県生まれ。東北大学大学院理学研究科修士課程退学。理学博士(東北大学)。宮城教育大学教育学部教授などを経て、2005年より現職。共編著書に『大津波と里浜の自然誌』、『自然と歴史を活かした震災復興』、共著書に『生態学が語る東日本大震災』など。東北学院大学発行の『震災学』(vol.4・vol.10・vol.13・vol.17)にも寄稿している。

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