東北医科薬科大学 教養教育センター 講師
「国民」の外から「人権」をみる
最近の「出入国管理及び難民認定法」(入管難民法)の改正に向けた動きは、賛否両極の議論を呼びながら、それが含んでいる様々な問題についての関心を高めてきました。その論点は、日本国民としての視点から、「私たちは外国の人たちにどのように向き合えばよいのか」といったかたちで、ふつう論じられているように思います。私が専攻している法学でも同じように、「外国人にどのように人権が保障されるべきか」というかたちで問題が捉えられることは少なくありません。
ただ、論点はそれだけではない、と考えています。私の専門は、法学のなかでも「国際法学」と呼ばれている分野です。「国際法」は、もっぱら複数の国家間の関係を規律している法で、それを通して意味づけられようとする空間は(宇宙空間を含む)世界の全体に及んでいます。その「国際法」による規律に注目して、必ずしもどこかの国民としての視点によらず、世界の全体を意味づけている重要な一つの要素として、「国籍や在留資格など国家の成員資格は、どのようにある(べき)か」を研究しています。
なかでも、一国民の視点からみれば「外国人」でしかない、国籍やそれに等しい地位を保障されていない人たちの状態は、ただ「人」であるがゆえに保障されるはずの「人権」が、現実にはそのように保障されていないこと、あるいはどのような条件の下であれば「人権」は保障されているといえるのかを知るためのポイントになります。そうした「人権」の諸条件をなす現実とともに、国籍や在留資格など国家の成員資格に与えられる(べき)法的な意味について考えています
2005年のフランスでの「移民による」(?)暴動
私が国際法への関心を高め、専門的に学ぼうと考えたのは、大学時代にフランスで起きた事件がきっかけです。2005年、パリ郊外で移民第二世代の若者2人が、警察官に追われて逃げる途中で感電死したことから大規模な暴動が発生しました。その暴動は、日本では「『移民』によって引き起こされた暴動」あるいは「移民の暴動」として知られ、今日にいたる排外主義的な言説に何か正当性のようなものを与え続けています。今日の日本政府が、「移民政策は採らない」(実質的にそれに相当する政策を採っているかどうかはともかく)と標榜しているのも、遠因として、この事件の伝わり方が作用していると感じます。
なんとしても、私が学生であった当時の法学部では、ドイツ、イギリス、アメリカ、そしてフランスの法制度は、日本がよい国になるために模範とすべきものとして、すごく理想化されていました。今も、ほとんどの法学者は、それらいずれか1つ以上の法制度に知悉していますが、そうした状況にあって、フランスの法制度が「移民によって」壊乱されようとしているのかもしれないことは、そのフランス像との葛藤を生み出す、衝撃的な事件だったのです。
フランス・リヨンでの学校生活から
ただ、私は、山形で生まれ、子どものころはズーズー弁を話し、夏は草野球や草サッカー、冬は米袋で作ったそりで自然を楽しんでいたのですが、小学生のときに親の都合で3年間フランスのリヨンに暮らしました。日本人学校にも週1日だけ通っていましたが、残りの4日は地元の公立学校です。リヨンは山形よりもずっと人が多い場所で、私のクラスにも様々な外見や言語、宗教をもつ子がいました。フランス語を話したり、友だちをつくったり、子どもだったので、今思い返すと相当な速度で順応していましたが、それでもまったく別の世界に驚いている感覚も残っています。
先に触れたフランスの「『移民』の暴動」を担ったのは、私と同世代の人たちでした。それで、「もしかしたら自分がその中にいたかもしれない」と思ったのです。日本国民の一人としてしか問題を考えようとしない傾向が強かった当時の法学のありかたに疑問をもったのも同じ頃です。
「あたりまえ」ではない「あたりまえ」
私たちは自分が「日本人」であるとか、あの人が「外国人」であるといったことを自然に受け入れて、生活しています。それには理由があって、世界を見渡しても、ほとんどの国の法令は、親の国籍と同じ国籍を取得する「血統主義」(jus sanguinis[羅])か、出生地を支配する国家の国籍を取得する「生地主義」(jus soli[羅])かのどちらか、あるいはそれぞれを組み合わせる方法を採っているからです。「血」の原理と「土」の原理のどちらも、生まれながらに国籍を与えるもの、国籍を「生得的なもの」とする原理です。
ほとんどの人が「国籍」を生まれながらに取得してしまっているので、それを「あたりまえ」のものと考えることもまた「あたりまえ」かもしれません。ただ、歴史をふり返ると、国籍の生得的性質が決して「あたりまえ」ではないことがわかります。たとえば、多くの人が領主のモノとして扱われていた中世には、「住所」によってその人の(「国籍」というよりももっとあいまいな)所属(誰の領主のモノか)が決められていました。「住所主義」(jus domicili[羅])などと呼ばれます。「住所」は、その人が実際に暮らしている「居所」とは違い、たとえば、大昔に曽祖父が暮らしていただけで、その人にとって何の所縁もない場所であることも少なくありませんでした。サヴィニー(Friedrich Carl von Savigny[1779年~1861年])という有名な法学者によると、古代ローマの都市国家の成員資格は、血統(origo[羅])か、この住所(domicilium[羅])かによって決められていたそうです。フランス革命期には、この「住所主義」の桎梏(しっこく)を解くために、フランスが「血統主義」を採用したという歴史もあります。
また、フランスといえば「生地主義」という印象もありますが、19世紀末まで「血統主義」が採られていました。そして、その転換期には、「生地主義」の正当性を補強する論理として、今ではほぼまったく知られていませんが、「教育主義」(jus educationis[羅])、つまり「学校教育を受けた国の国籍を取得すべきである」という考えが提唱されたこともありました。その背後には、自国の兵士となる人を増やしたいという邪心があったようですが、そのおかげで(?)、フランス人らしいとはいえない外見の私も、やがてフランスを構成する「市民」(citoyen[仏])になっていく人として、フランスの学校では他の子どもと同じように扱ってもらえたのかもしれないと思います。
さらには、多くの国は、20世紀初頭まで、「妻の国籍は、夫の国籍による」という規則を使っていました。つまり、違う国籍をもつ人と結婚した場合、妻の国籍が夫の国籍と同じ国籍に変わる、ということです。今となってはヘンですよね。そのような規則のせいで、結婚して夫と同じ国籍をもつことになったところ、出身国と国籍国が戦争を始め、出身国にも帰れなくなり、国籍国では敵として虐められた、などという逸話も残っています。
それから、とくに1930年代には、各国で国籍の剥奪が流行しました。ナチ・ドイツによるそれはある程度広く知られていますが、イギリスやフランスもその時期にはそれまで自国民として扱っていた人から国籍を剥奪しています。「難民」という法的類型を規律する国際条約も、同じ時期にそのように国籍を剥奪された人や(アルメニア第一共和国など)そもそも自国が消滅してしまった人の地位を確定するために起草された経緯があります。そのずっと後の1990年代の旧ユーゴスラヴィアの解体に際しても、同じ問題が生じています。
これからの成員資格
このように「国籍」も、「在留資格」などと同じように、人工的につくられ、維持されている制度です。そこには、それを分かちもつ多くの人たちのあいだの水平的な連帯を生み出す最高の装置としての側面と、それをもたない人とのあいだに支配と従属の関係を生み出してしまう最悪の装置としての側面があります。「血統主義」は排他的で悪く、「生地主義」は包摂的で良い、と素朴に考えられていたこともありましたが、たとえば、親の一時滞在先で生まれた子が、その後ずっと暮らしている生地主義国の国籍を取得できないという事例もあり、一概にはいえません。そこで最近では、「連関主義」(jus nexi)が提唱され、その人の生活に最も密接に関連している国の国籍を付与してはどうか、といった議論が交わされています。
みなさんはどのように考えるでしょうか。ぜひ一緒に考えてみてください。
研究者プロフィール
専門=国際法学
《プロフィール》(かとう・ゆうた)1986年山形県生まれ。東北大学大学院法学研究科 博士課程修了。博士(法学)。東北大学大学院 法学研究科助教を経て、2020年より現職。