宮城学院女子大学 一般教育部 教授
歴史を学ぶことで見えてくる
2015年に着任して以来、人権やキャリアに関する教育に主導的な立場で関わってきました。本学では全ての新入生が「女性と人権」という講義を履修します。また4年間を通して学ぶ「キャリアデザイン科目」は、職業の選択や就職だけでなく、女性の生き方を総合的に考え、自立して生きる力を身につけるための授業です。これらの内容を策定し、教科書を執筆・編集する中で、私自身も専門であるジェンダーや女性学について、あらためて学びを深めることができました。
こうした授業を経験した卒業生たちが、勤務先や地域社会で生き生きと力を発揮しているのを見るのは大きな喜びです。また4年生が、就職活動に取り組む中で「先生の授業があって良かったです」と言ってくれるのも、うれしくてなりません。
ジェンダーや女性学という言葉に、なじみの薄い方もおられるかもしれません。ジェンダーとは、生物的な性別に対して、文化的・社会的に形成された性別を指します。また女性学は、男性中心だった政治、経済、社会、歴史などの研究のあり方を、女性の視点から見直し、考え直そうとする学問分野です。
これらは女性の人権を主張し、両性の平等を求める理論・運動であるフェミニズムとも関連しています。フェミニズムは時にマスメディアでからかいの対象にされたり、インターネット上で、内容を知ろうともせずに批判されたりもしてきました。しかし今、ジェンダーの問題は社会で広く認識されるようになり、新しい学問だった女性学には蓄積ができ、フェミニズムの考え方も若い世代を中心に広く受け入れられています。
こうした変化は、先人の努力や苦闘があったからこそです。私たちはその歴史を知り、社会を変えるための歩みを止めず、また次の世代へつないで行かなければなりません。そのため本学の授業「女性と人権」でも、歴史の学びを重視しています。たとえば人権の歴史ではフランス革命と人権宣言が有名ですが、女性の権利は認められていませんでした。こうした学びから、学生たちは「高校までの学習内容だけでは、自分たちの権利について本当に理解することは難しい」と分かります。
また上の世代の家族の経験が、身近な歴史であることにも氣づきます。授業後の学生のコメントには、「祖母からは、私も 大学で学びたかったけれど出来なかった、あなたは頑張りなさいと言われました」というものもありました。日本の女性の大学進学率は上昇してきましたし、進学先も短大から四年制大学へという傾向が続いています。しかし「女に学問はいらない」「四年制大学など出たら嫁のもらい手がない」といった考えは、地域によっては決して昔話ではないのです。
世界に取り残されている日本
日本は世界から、女性の人権について「遅れている国」と見られています。世界経済フォーラムが毎年発表する「ジェンダー平等ランキング」で、今年は146カ国中125位と、過去最低を更新しました。国際的な基準では、日本は特に政治と経済の分野で遅れが目立ちます。
たしかに法律の整備は進んできました。1979年に国連総会で採択された「女性差別撤廃条約」を批准するため、関連する国内法の制定や改正が行われたことは大きかったと思います。1984年には国籍法が改正され、日本国籍を取得できる条件が出生時に 「父親が日本人であること」から、「両親のどちらかが日本人であること」(父母両系主義)に変わりました。1985年には「男女雇用機会均等法」が成立し、やっと条約を批准します。
働き方については、均等法の成立後も動きが続いています。しかしそれは人権の面から見ると、決して前進だけではありません。男性並みに転勤があって長時間労働もいとわない総合職と、補助的な業務で昇進が限られる一般職という女性の「コース別雇用管理制度」は、その一例です。さらには不安定な雇用が広がり、女性の多くが契約社員や非正規での就労を選ばざるを得ない状況が作られています。経済的自立は女性の人権にとって大変重要ですが、平等にはほど遠いと言わざるを得ません。
学校教育も変わりました。「家庭科」は、実は戦後すぐの時期には男女共修が目指され、限界はあったものの一部は実現していました。しかしその後、中学校の「技術・家庭科」で男子に技術科が、女子に家庭科が振り分けられます。高校では家庭科が、女子のみ必修になりました。しかし女性差別撤廃条約の批准にあわせて、1989年に学習指導要領が改訂され、1993年には中学校の技術・家庭で男女が学ぶ内容が同一となり、翌年には高校の家庭科が男女ともに必修となりました。
性的被害の問題も深刻です。1980年代以降、職場での性的な嫌がらせがセクシュアル・ハラスメントとして認識されるようになりました。均等法の1997年の改正で、ようやく防止規定が盛り込まれます。今年の7月には「不同意性交罪」などを含む、改正刑法が施行されました。こうした変化も、勇氣ある女性たちの、裁判などにおける困難な戦いがあったからです。
家族についても、妊娠・出産における女性の自己決定権や、家事・育児・介護などの分担など、問題は山積しています。また現在では、性的マイノリティへの偏見や差別の解消を目指す動きも拡大しつつあります。そうした中で、私が今もっとも力を入れているのが「災害女性学」の構築です。
「次」に備える災害女性学を
きっかけは、2011年の東日本大震災です。私は仙台市出身ですが、当時は名古屋市の大学に勤務していました。帰仙し、家族をケアしたり被災地を回ったりした後で名古屋に戻ると、大都市の明るさや被災地との落差に強烈な違和感を覚えたのです。「故郷の、東北の復興に貢献したい」と思うようになり、本学が女性学の教員を求めているのを知って手を挙げました。
その過程で、本学の教授を務めておられた浅野富美枝先生や、NPO法人イコールネット仙台の宗片恵美子さんらと知り合うことができ、避難・移住した被災女性たちへの聞き取り調査などに取り組みます。震災で女性や子ども、高齢者たちは、弱い立場ならではの大きな困難に見舞われました。支援のあり方や避難所の運営方法など、多くの反省点が指摘されています。私たちはこの経験を、必ず「次の災害」に活かさなければなりません。そのためには防災や減災、支援体制や法律の整備だけでなく、これらの基盤となる当事者の視点、ジェンダーの視点による理論的・学問的な枠組みが不可欠です。震災から10年の節目には浅野先生と『災害女性学をつくる』という本を刊行しました。これを出発点として、災害女性学を確立していきたいと思っています。
女子大学に勤務している今、私はあらためて「女性が成長過程の一時期、女性だけの環境に身を置くことには大きな意味がある」と考えています。私自身も仙台で女子高生活を送り、ミッション系の東京女子大学に学びました。教育の場には今でも暗に、男性優位、責任ある立場には主に男性、女性はそれを支える、といった慣習が残っています。精神的に伸び伸びと成長できる、女子だけの学びの場が必要とされているのです。
そういう私も、かつては女性と人権について、決して自覚的とは言えませんでした。大学を出て就職し、結婚し、育休制度が不十分だった時代にあって、子どもができて退職します。英語が長所だったため、家で翻訳の仕事などはしていましたが、しばらくはモヤモヤを抱えた専業主婦でした。しかし大学の恩師に偶然再会して情報を得たことから、大学院を目指そうと一念発起します。大学でも社会学を学んでいましたが、明確な目的があったわけではありません。しかし今度は自分の経験と問題意識を基に、本格的にその研究をしようと思ったのです。
30代半ばにして、母校の大学院で10歳以上年下の仲間たちと勉強に励み、修論の提出日には小学校低学年だった息子を連れて院の窓口に急ぎました。大変でしたが、自分がずっと感じていた「女性ならではの困難」の理由が、霧が晴れるように明らかになった喜びは、今でも忘れることができません。さらには一からフランス語を学ぶなど準備して早稲田大学の博士課程に進み、40代で研究者になりました。皆さんも年齢にとらわれず、またご自身の経験や問題意識を大切にしながら、学び続けていただければと思います。
研究者プロフィール
専門=女性学・ジェンダー論・教育社会学
《プロフィール》(てんどう・むつこ)1957年宮城県生まれ。東京女子大学文理学部卒業。同大学院文学研究科修士課程修了(社会学専攻)。早稲田大学大学院 教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。名城大学人間学部教授を経て、2015年より現職。著書に『ゼロからはじめる女性学 ジェンダーで読むライフワーク論』、『女性のエンパワメントと教育の未来 知識をジェンダーで問い直す』、編著書に『キャリアを創る―女性のキャリア形成論入門』、『育児言説の社会学―家族・ジェンダー・再生産』、共編著書に『災害女性学をつくる』など。