東北大学大学院 情報科学研究科 助教
医療につながる生物学研究を
医学部や工学部で学生の教育に携わりながら、大学院で脳に関する情報生物学を研究しています。生物に興味を持ったきっかけは、小学校低学年の時に親に買ってもらった『ちのはなし』という堀内誠一の絵本でした。「どうみゃく」「せっけっきゅう」など、ひらがなで書かれてはいますが、本格的な内容です。「人の体って面白い!」と、夢中で何度も読み返しました。
中学・高校と生物の授業は楽しかったものの、物足りずに生物学の入門書に親しみました。大学ではコウモリなどの性ホルモンを調べ、大学院に進んでからは、脳をはじめとする中枢神経に関心を移します。以来、マウスなどの動物実験を通して、脳、神経、そしてホルモンの働きやその分泌(ぶんぴつ)メカニズムについての研究を重ねてきました。
今回のテーマは「おそれ」とのことですが、人間以外の動物にも、不安や恐怖といったマイナスの感情は存在します。これらは急で強い感情ですから、「情動」という言葉の方が適切かもしれませんね。人間以外の動物は言葉を持たないので、その情動について知るには工夫がいります。ストレスを感じると分泌される、ストレスホルモンの種類や量を調べる方法は特に有効です。「マウスのホルモンを調べて人間のことが分かるのか」と言われれば、答えは「はい」です。サルのように人間に近い動物だけでなく、哺乳類のホルモンは、皆とても近い構造や働きをしています。一方で「脳を詳しく調べれば、人の心が分かりますか」と問われれば、現時点での答えは「いいえ」です。コンピュータが発達したおかげで、脳や神経やホルモンに関する分析は、遺伝子のレベルまで急速に進みました。私の専門である情報生物学とは、まさにそうした学問です。しかし調べれば調べるほど、新しいことが分かれば分かるほど謎が増えていくばかりで、まったくゴールは見えません。
もちろん生物学の研究成果の医療への応用は進んでいますし、これからも有望です。例えば、うつ病の方に処方される抗うつ薬は、神経細胞の間で情報を伝達する物質をコントロールすることで効果を発揮します。生物学の研究者には生命の進化に関心を向ける人が多いのですが、私はかつて医師を志していたこともあって、医療につながる研究に力を入れてきました。精神科で働いている医師や、やはりマウスなどを用いて実験に励んでいる医学者とは、情報を交換し、互いの研究に学ぶことで、患者さんのためになる成果を上げられるよう努めています。
おそれると出るストレスホルモン
人間は不安や恐怖といった「おそれ」を避けたい、遠ざけたいと思っています。しかしこうした情動は人間にとって必要不可欠であり、一概にネガティヴなものだとは言えません。
私たちの祖先は、自然の中で狩られ、食べられてしまう危険と隣り合わせで生きていました。夜の闇や、背の高い植物が生い茂る場所には、トラなどの捕食者が潜んでいるかもしれません。自分や子孫の命をつなぐため、そうした場所や状況をおそれる必要があったのです。そして文明が発展しても、「おそれ」は失われませんでした。何らかの危険を感じたら、警戒し、近寄らないようにしなければならないからです。
一方で現代に生きる私たちは、怪談を聞いたりホラー映画を見たり、ジェットコースターに乗ったりして、一時的な不安や恐怖を楽しめるようになりました。また、未経験の大きな仕事を任されるなどすると不安を感じますが、それをやり遂げることで、「おそれ」を乗り越える喜びや達成感を味わうことができます。これは脳の神経細胞の間で、「予想外の興奮」を伝達するドーパミンなどの物質が分泌されているからです。
しかしこのドーパミンも含めて、動物の様々な分泌物は、出過ぎると大きな問題になります。私の専門であるストレスホルモンの代表例として、副腎皮質から分泌されるコルチゾールを取り上げましょう。
われわれはストレスを感じると交感神経を刺激し、脈拍や血圧を上げ、脳を目覚めさせます。一方で副腎皮質からは先程のコルチゾールが分泌され、ストレスに対抗します。このホルモンは、タンパク質をアミノ酸に分解し、肝臓でブドウ糖に合成したり、脂肪を分解してエネルギーの供給を促したりするのも役割の一つです。また、細菌やウイルスを排除しようと炎症が起きるといった免疫機能にも関わっていて、炎症や免疫を抑える働きも担っています。このように重要なホルモンなのですが、強烈なストレスや長期のストレスを受けると、過剰に分泌されるなどして問題を起こします。例えば脳の記憶に関する重要な部分である海馬(かいば) の神経組織にダメージを与え、壊してしまうのです。
しかし複雑な現代社会で生きていくためには、ストレスとうまく付き合っていくしかありません。充分な睡眠をとったり、ビタミン類を補給したりすることが大切です。とくに私のおすすめは体を動かすことですね。体を動かしている間だけでも、ストレスの原因から離れられますし、頭を休められます。ここには科学的な根拠があるのですが、かなり専門的になりますので、今回は割愛させていただきます。私も実験や研究でしょっちゅう行き詰まるので、週の半分以上は青葉山を1時間ほど歩いてリフレッシュしています(笑)。
不安や恐怖に男女差はあるか
「女性は怖がりだ」とか「女性は物事を氣にし過ぎる」などは、長くそう言われてきただけで、個人的な経験に基づく思い込みに過ぎないかもしれません。では生物学的にはどうでしょう。実は人間に限らず、動物の脳や神経やホルモンには明らかな「性差」、つまりオスとメスの違いがあります。
もちろんこれは、上下や優劣を意味しません。さらに言えば現代の生物学や医学では、性とは完全に二分されるものではなく、「この個体はオスとメスのどちら寄りか」という見方をします。外見的な体の特徴だけでなく、体内の仕組み、個体の発生過程、そしてホルモンなどを詳しく調べることで、はじめて性差について正しく考えることができるのです。
例えば人間の場合、「不安障害」の罹患率(りかんりつ)は女性の方が明らかに高く、男性の倍以上になっています。不安障害とは、不安が日常生活に支障をきたすほど強く、長く、あるいは頻繁に起こる状態です。動悸、発汗、不眠などの症状があり、「パニック障害」「社会不安障害」なども含まれます。
不安や恐怖の感じ方に、性差はあるでしょうか。もしも「おそれ」の情動に性差があることや、その仕組みが解明されれば、やがては不安障害などの治療にもつながるでしょう。そしてまさにこれが、私が取り組んでいる主なテーマなのです。
不安や恐怖を感じると心拍数が上昇し、その環境から遠ざかろうとするのは、マウスなどの実験動物も人間も同じです。そうした状況では、脳内の複数の神経集団が協調して情報を処理し、適切な行動を判断します。中でも重要なのが、扁桃体(へんとうたい)や分界条床核(ぶんかいじょうしょうかく)と呼ばれる部分です。
こうした働きをする神経集団の顔つき(どのような種類の細胞で構成されているか)を判別することは、かつては非常に困難でした。しかし東北大学と新潟大学の研究で、特定の神経細胞を発光させて視覚的に確認できるマウスを作ることに成功したため、私の研究も大きく前進しました。メスの分界条床核の中に、オスよりも大きな領域が見つかったのです。メスのその領域の中には、ストレスホルモンを含む神経細胞も、オスよりも多く観察されました。
今はまだ、分界条床核の性差が不安障害の罹患率の性差に影響している可能性があるかもしれない、としか言えません。しかし将来の予防や治療につながるかもしれないため、4 年前にこの研究成果を発表したところ、米国の専門誌に論文が掲載されるなど、国際的にも高い評価を得ることができました。
私は市民の方々や子どもたちに、生物学や医学の研究成果を平易に伝えることには大きな意義があると考えています。この記事をきっかけに、脳や心の生命現象に関心を持っていただけるとうれしいです。学びは、受け身の態度では限界があります。こうしてご自分で記事を読み、考え、インターネットや書籍を活用することで、さらに学びを広げていただきたいです。私も機会をとらえて、これからも発信を続けていこうと思っています。
研究者プロフィール
専門=神経科学・神経内分泌学・情報生物学
《プロフィール》(うちだ・かつや)1967年東京都生まれ。富山大学理学部卒業。同大学院理学研究科修了。この間、東京都老人総合研究所に在籍。埼玉大学大学院 理工学研究科にて博士(理学)を取得。東京都神経科学総合研究所を経て、2002 年、東北大学大学院情報科学研究科に助手として着任。2007年より現職。