参加体験記

【史料講読講座】文献史料から見る 古代多賀城の政治

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月日 令和4年5月15日、6月19日、7月17日 (全3回)
場所 東北歴史博物館
講師 須賀正美氏(東北歴史博物館 副館長兼企画部長)

 本講座は続日本紀などの史料を読みながら、古代多賀城の政治状況について学ぶ全3回のシリーズ講座です。県外出身者の宮城県民として向学のため参加してみました。コロナ感染対策のため通常より少ない定員になっています。講師曰く、一方的な説明ではなく、双方向のやりとりを行う講演を目指していたが、コロナ対策のためできなくなった、と残念がっていました。

 今回の講演では多賀城が創建され国府となった頃から、多賀城の修造、そして伊治公呰麻呂の乱による多賀城の焼失までの歴史について丁寧に説明してくれました。律令国家と蝦夷の争いを中心とした8世紀奈良時代の東北地方の歴史です。

 第1回は多賀城の創建です。「陸奥」に関して文献初出は655年、「陸奥国」は676年に現れます。律令国家の北方拡大が進行し、越後国から出羽郡が分かれ、陸奥国の2郡(最上、置賜)を合わせた出羽国が712年に建国され、陸奥・出羽国への関東地域などからの移民政策が行われます。
 718年に陸奥国は4郡(宮城、名取、柴田、刈田:今の宮城県区域)と小さくなります。国府は郡山遺跡(長町)から多賀城へ移転します。722年から大野東人により建造が始まり、724年に創建されました。北方への支配の拡大を狙う拠点となるものです。丘の上に設けて睨みを効かし、建物には威厳を演出して、軍事的な安定を図りました。

 第2回は多賀城の修造(762年)です。修造に関して天平宝寺6年(762年)12月1日に建立された多賀城碑に記されている以外に詳しい史料がないそうです。
 創建から修造までの期間、北方内陸部の連絡道路の開削を進め、760年には海道筋に桃生城、北方内陸・山道側の出羽国に雄勝城を建造し、進出の拠点を拡大していきます。
  多賀城の修造、つまりフォームですが、発掘調査などによって具体的に分かってきています。創建時は国府として通常の規模でしたが、修造期には律令政治が浸透してきており、移民も増え、官衙の増加 により建物数も増え、瓦屋根も増えて掘立柱から礎石柱式建物になります。敷地内に石畳を設置して荘厳化し、広くなった敷地に対応して南門が南へ移動しました。
  この修造を指揮したのが藤原不比等の孫仲麻呂の子朝?(あさかり)です。中央の権力者の直系人物です。修造は仲麻呂による近江国府を手本としたそうです。修造の目的は中華思想に基づき、北方支配の拡大を意図するもので、藤原氏を中心に展開されたものです。

 第3回は多賀城修造後の陸奥国の情勢です。767年に陸奥国内に伊治城を造営し、栗原郡を設置します。桃生城の造営(760年)、多賀城修造(762年)、伊治城造営と拠点が順次整備され、体制を整えます。一方、蝦夷との戦争は過激になります。774年、蝦夷による桃生城の襲撃に始まり、胆沢、志波での反乱などが連続し、780年には伊治公呰麻呂の反乱も起こり、大混乱となります。呰麻呂は服属した蝦夷ですが、反乱が蝦夷たちの不満を増幅し吐き出させます。関東などの国からの徴兵によって組織された征東軍が派遣されますが、1年を過ぎてもかなか制圧できず、有耶無耶に終わることになります。続日本紀には光仁天皇と征東大使、副将軍とのやりとりが記されています。
 774年の桃生城襲撃から始まる戦いは38年戦争と言われるものです。8世紀から9世紀初頭にかけて、有名な坂上田村麻呂や胆沢の蝦夷阿弖流為などが登場し、戦いの舞台は北へ広がります。9世紀初めにこの戦争も終了し、落ち着きを取り戻します。結果的に律令国家の版図がまた北方へ拡大することになりました。

 ここで講座は終了です。領域の拡大を進める律令国家と抵抗する東北各地の人々との戦いが続く中で、その北方拡大政策の拠点として創建されたのが多賀城ということになります。いずれにしろ、約300年続いた国府多賀城は創建から1300年という節目をまもなく迎えます。
 東北歴史博物館に多賀城跡に関する1枚のリーフレットがあります。表面には案内図や多賀城碑の拓本、遺跡発掘状況の写真などがあり、裏面には今回の講演の要点をまとめたような短い説明文もあります。その説明文の背景や意味するところなどが分かるようになりました。また、この3ヶ月に亘ったシリーズ講演の間に、買い置き状態で長く未読の関係書数冊にも目を通すよい機会となりました。

(仙台市 島田昭一)

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