研究者インタビュー

地域の歴史から見た日本の戦争

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(元)東北大学大学院 文学研究科 助教
伴野 文亮 先生

戦地の兵士と地元を結んだ軍事郵便

 小学校1 年の時に、NHK の大河ドラマ「秀吉」を見て歴史に興味を持ち始めました。私は静岡県の出身ですが、翌年の「毛利元就」にも、子の元春が継いだ吉川(きっかわ)家のルーツの墓所が家の近くだったこともあって熱中します。そして学習まんがを読むなどして歴史を学ぶうちに、有名な戦国大名たちの戦いの陰で苦しんだ、無名の人々の暮らしなどへも関心が広がるようになります。

 高校の部活は、応援団と時事研究同好会です。顧問だった公民の先生は「天皇制」などの用語を用いて日本の近代史や現代社会を熱く語る方で、しっかり影響を受けました(笑)。

 歴史を学ぼうと入学した専修大学では、2 年生からゼミでの専門的な勉強が始まりました。指導教員の新井勝紘先生は日本の近現代史がご専門で、学生の時に大発見に関わっています。明治前期の1880 年頃、宮城県出身の千葉卓三郎が今の東京都あきる野市で、仲間たちと憲法の民間草案(私擬憲法と言います)を作り上げました。基本的人権の尊重を明記するなど極めて民主的で完成度の高いものですが、長い間忘れられていたのです。今では「五日市憲法」として知られるこの文書を、1968 年、大学の調査で訪れた土蔵で最初に手にしたのが新井先生でした。

 新井先生は私たち2 年生のゼミ生に、古ぼけたハガキや封書の実物を見せてくださいました。それが、私と軍事郵便との出会いです。昭和戦中期に中国などの戦地に配属された兵士らと、日本で暮らす家族などが交わしたもので、制度上の検閲はあったものの、当時の戦況や生活の様子が生々しく記された一級の歴史資料です。その多くは私信で、兵士や家族が保管していた実物を手にできるのは幸運という他ありません。私たち学生は読解に苦しみながらも、戦争の時代に生きた人々が残した一次史料を読む喜びと、歴史研究の意義を強く感じました。

 そして軍事郵便は、実は私の母の実家にもありました。戦死した祖父の兄が送ってきたものです。国のために戦って死んだ大伯父は一家、特に曾祖父にとって誇りでしたが、家族にとってはやはり無念でもあったのでしょう。大伯父のためだけの墓碑を建て、軍事郵便は仏壇の引き出しに大切にしまってあったのです。私は新井先生の下で近代の天皇制を研究するかたわら、国家の支配に従い、軍に志願し、また徴兵に応じ、あるいは物心両面で前線を支えるなどして戦争を受け入れた、普通の人々の氣持ちや生活にも関心を深めるようになりました。

近代日本の戦争を民衆の側から見る

 「終戦」から80 年近くを経た今、軍事郵便はその存在さえ忘れ去られようとしています。廃棄されて散逸し、果ては古くて珍しい切手や消印・ハガキ・封筒だけを目当てに、インターネットで売買されているのです。

 5 年前、私は埼玉県立文書館(もんじょかん)で史料編纂(へんさん)の担当職員を務めましたが、そこにも軍事郵便が収蔵されていました。県の行政関係ではない資料も保存されていることを、不思議に思われるかもしれません。実は埼玉県では民間所在の歴史資料にも価値を認め、半世紀以上にわたって収集と保存に努めているのです。

 今、これを読んでおられる方の家にも、軍事郵便などの貴重な資料が眠っている可能性があります。もちろん収蔵スペースの関係で、全てを受け入れることはできませんが、代替わりなどで廃棄してしまう前に、大学などの研究機関や、自治体の博物館・資料館に連絡してみていただけるようお願いします。

 記録や資料、それらを保存すること、そして関係する機関や施設を、アーカイブやアーカイブズと言います。東北大学にも大学の歴史に関する資料を収める史料館があり、私は今年3月に発行された『東北大学史料館だより』に、「軍事郵便をアーカイブする意義」と題した一文を書かせていただきました。

 主に取り上げたのは、埼玉県立文書館の「黒田家文書(もんじょ)」です。現在の埼玉県羽生市の黒田家にあった、軍事郵便を含む一連の歴史資料をこう呼んでいます。1940 年(昭和15)に中国で戦死した黒田省五郎は、兵士として特別な存在だったわけではなく、黒田家も地域における特別な家ではありません。しかし省五郎が家族らに宛てた手紙だけでなく、知人が中国の省五郎に地元の様子を伝えた手紙や、中国で省五郎と知り合った同郷の兵士が、その戦死を省五郎の母親に知らせた手紙などがまとまって遺されている点が、たいへん貴重です。

 戦争を直接経験した、普通の人々の「肉声」を伝えてくれる軍事郵便が、高い史料的価値を持つことは言うまでもありません。しかし研究対象としての価値だけでなく、戦争経験の「風化」を食い止め、真に平和な未来を築くためにも、その存在に社会全体で注目する必要があると思います。

地域の「偉人」と戦争の意外な関係

 大学卒業後は、日本における近代社会の成立と天皇制の関係の研究を続けようと、一橋大学の大学院に進みました。時代が江戸から明治になり、天皇は京都から東京へと移ります。その後は日本各地に100 回近くも出かけていて、日帰りもありますが、長い旅は2 か月以上に及びました。天皇が出かけることを行幸(ぎょうこう)、行き先が複数の場合は巡幸といいます。地域の歴史にも関心があった私は、これをテーマに選びました。

 明治天皇の巡幸には、新政府が支配体制を固めるために、民衆に天皇というシンボルの存在を認知させ、敬意を抱かせるなどの意味があったと考えられます。当時はまだ政府の権威が確立しておらず、対立して国民の権利を強く求める自由民権運動が盛んでした。先ほど述べた「五日市憲法」も、そうした活動の一つです。そうした時期に天皇が各地に姿を見せ、地方の行政機関や有力者宅を訪ねることには、大きな意味がありました。

 私の地元である静岡県で明治天皇の休憩・宿泊先をたどると、浜松市では金原明善(きんぱら・めいぜん)という人物の経営する「治河協力社」の建物に立ち寄っていました。金原は江戸時代の1832 年(天保3)に豪農の家に生まれ、明治時代に実業家や社会事業家として活躍した人です。この時に金原は明治天皇に謁見(えっけん)しています。

 同じ静岡県でも、江戸時代は浜松市のある西部が遠江(とおとうみ)、私が生まれた清水市(現静岡市)のある中央部が駿河(するが)の国で、今でも文化や氣風に違いがあります。私はこの調査で初めて金原を知りました。しかし遠江地域では、林業などで成功し、私財を投じて天竜川の治水に力を尽くし、出獄した人の社会復帰を支援する活動に取り組みながら、自らは質素倹約に努めた「偉人」として有名です。

 金原は1923 年(大正12)に亡くなりますが、明治時代に設立した天竜川の治水と利水を目的とした組織「金原疎水財団」は、今も「一般財団法人 金原治山治水財団」として存続しています。子孫の方らが森林管理や生家の保存にあたっていて、1960 年(昭和35)には金原の事績を伝え、主な資料を展示する記念館も開設されました。しかし実際に現地を訪ねてみると、生家の蔵などに膨大な未整理の資料が遺されていたのです。私はこれを調べ、「地域の偉人を通して時代と社会を分析する」という課題に取り組もうと決めました。

 明治政府は富国強兵策によって産業や軍事の急速な近代化を進める一方、国民に対する支配を強め、他国との緊張関係も高まります。金原のような「地域の偉人」たちは、信念を持って近代産業の創出に努め、国や故郷の発展に貢献しました。しかしその「臣民」としての言動が後世、とりわけ戦時下を生きた人々の天皇や国家への忠誠心を促すために利用された面も否定できません。明治後期から昭和戦中期にかけて、日本が海外での権益や資源・土地を求めて戦争を繰り返すようになると、金原は国定教科書に載るなど、模範的日本人として称揚されることになります。

 ロシアのウクライナ侵攻によって、私たちは戦争が歴史上の出来事ではないことを改めて思い知らされました。しかし戦争は、政府だけが行うものではありません。その支配に従い、戦争を受け入れる国民が必ず存在します。そしてそれが、私たちの未来と無関係であると断言することはできないのです。軍事郵便や「偉人」について学ぶことで、皆さんにも戦争について、多面的に考えていただければと思います。

(取材=2022年5月16日/東北大学川内キャンパス 文学研究科棟6 階 現代日本学研究室にて)

研究者プロフィール

(元)東北大学大学院 文学研究科 助教
専門= 19 世紀日本史・書籍文化史
伴野 文亮 先生

《プロフィール》(ともの・ふみあき)1989 年静岡県清水市(現静岡市)生まれ。専修大学文学部卒業。一橋大学大学院 社会学研究科修士課程修了。同博士後期課程修了。博士(社会学)。埼玉県立文書館、公益財団法人渋沢栄一記念財団事業部研究センター勤務を経て、2019 年より東北大学に着任。2022 年7 月より東京経済大学史料室嘱託。編著書に『日本学の教科書』、共著書に『アーカイブズの現在・未来・可能性を考える 歴史研究と歴史教育の現場から』『移行期の東海地域史 中世・近世・近代を架橋する』など。

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