宮城大学 基盤教育群 准教授
アウシュヴィッツ博物館の衝撃
私の専門は国際公法です。国際法には、国際結婚や貿易取引のように複数の国にまたがる私人間の法律関係を扱う国際私法と、国家間の相互関係を規律する条約や慣習国際法を扱う国際公法という分野があります。単に国際法というときは、一般には後者の国際公法を指します。国際公法には、海洋法や人権法等の分野がありますが、私は主に武力紛争法という、戦争におけるルールとその履行、つまりルールをどのようにして実現するかという問題について研究しています。
私は高校生の頃から語学が好きで、大学では外国語学部でドイツ語を学びたいと思っていました。しかし、当時のセンター試験の結果が思わしくなかったため、安全策でボーダーラインが低いロシア語専攻を受験し、合格することができました。また、国際関係にも興味があったので、大学では国際という名前がつく科目を多く履修しました。2 回生の時に履修した国際法はその中の一つで、それが私と国際法との出会いです。ただ当時は、そこまで熱心に勉強したわけではありませんでした。
消極的な理由で専攻することになったロシア語ですが、勉強してみると意外に面白く、3 回生の時にはロシアのヴォロネジという都市に8 カ月ほど留学する機会を得ました。留学していた大学の長期休暇中にはチェコとポーランドを回り、ポーランド南部にあるアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を訪ねます。博物館には、収容されたユダヤ人に対してナチスが行った残虐な仕打ちの証拠品等が展示されているのですが、人体実験の跡等人間の尊厳が奪われた現実を目の当たりにして、強い衝撃を受けました。大学では国際法を履修したので、戦時には文民が保護されることや、交戦国の敵対行為を規制する国際法が存在することは知っていました。しかしなぜそれらの国際法が守られなかったのか、という疑問から、今の研究に進むことを決意しました。
第二次大戦後から約80 年間、平和裏に暮らしてきた日本人にとって、戦争は遠い国で起こる対岸の火事でした。そうした私たちに、ロシアによるウクライナ侵攻は戦争の現実を改めて突きつけました。ロシアが日本にとっても隣国であることから、日本では防衛力強化に関する議論が熱を帯びつつあります。しかし、現代の国際法はそもそも戦争を禁止していますから、今こそ戦争に関する国際法のルールについて理解を深め、対応を考えていくべきではないでしょうか。
武力不行使原則を守らせるには
国際法には戦争そのものを禁止する条約や慣習国際法が存在しますが、20 世紀に入ってから発展しました。その嚆矢(こうし=始まり)が1919 年に採択された国際連盟規約です。同規約は、国家間で紛争が生じた場合、平和的に解決することを締約国に義務付けます。しかし、平和的に解決できなかった場合は戦争に訴えて紛争を解決することを禁止していませんでした。その後、1928 年に採択された不戦条約も戦争の違法化を追求しましたが、ここでも戦争の禁止は不完全に終わります。国際法で戦争の完全禁止、違法化が達成されたのは第二次世界大戦後です。1945 年に国際連合の設立根拠として採択された国連憲章は、「武力による威嚇又は武力の行使」を禁止しています。これは「武力不行使原則」といって、世界中の国が遵守すべき慣習国際法としても成立しています。
武力不行使の原則が確立しているにもかかわらず、往々にして戦争が勃発してしまうことは歴史が証明しているとおりです。戦争そのものを禁止する国際法とは別に、そのひとたび発生した戦争において交戦国間の敵対行為を規制する国際法も存在します。それが、私が研究している武力紛争法で、19 世紀後半頃から発展しました。捕虜や文民等の戦争犠牲者の保護に関するもの(ジュネーブ諸条約)や、兵器等の戦闘手段・方法を規制するもの(対人地雷禁止条約、クラスター弾条約)等があります。武力紛争法は、国際人道法と呼ばれることもあります。
国連憲章のように戦争を禁止する国際法が存在していてもそれに違反する国が出てくる以上、ルールを守らせる仕組みが必要です。現代の国際社会では、武力不行使原則に違反した国が生じた場合、国連を通じた集団安全保障体制のもとでそれが予定されています。ある国の武力行使を国連の安全保障理事会が平和に対する脅威だと認定した場合、安保理は平和を回復するために軍事的措置を含む必要な措置をとることを決定し、その後国連加盟国が集団で対応します。しかしその決定には安保理常任理事国である中国・フランス・ロシア・英国・米国の同意が必要で、一カ国でも反対すれば決定はなされません。いわゆる拒否権の問題です。1990 年にイラクがクウェートに侵攻して湾岸戦争が起きた際は、拒否権を行使する常任理事国がなかったため、国連の集団安全保障体制が機能しました。安保理の決定に基づき多国籍軍が展開した結果、イラクはクウェートから撤退しました。今般問題となっているロシアのウクライナ侵攻は武力不行使原則に違反している可能性が極めて高いので、国連の集団安全保障体制が機能することが期待されます。しかし、安保理常任理事国であるロシアが拒否権を持っているため国連は行動を起こすことができず、機能不全に陥っている状態です。
なお、安保理が機能しない場合でも、国際法上ウクライナには個別的及び集団的自衛権が認められていますので、一定の要件の下でウクライナはロシアに対して武力による自衛のための措置をとることができると考えられます。しかし、軍事力で劣るウクライナがロシアに単独で個別的自衛権を行使することは難しいと思われますし、ウクライナのNATO(北大西洋条約機構)への加盟の可能性が低くなった今となっては、集団的自衛権の行使も現実的ではありません。
国際機関の役割と限界
国連には、国際法に基づく裁判で国家間の紛争を平和的に解決することを任務とする国際司法裁判所(ICJ)が存在しますので、ウクライナ問題を司法の場で解決する方法も考えられます。しかし、ICJ の管轄権は紛争当事国双方による同意を基礎としているため、ロシアが同意しなければICJ は管轄権を行使することができません。今年2 月にウクライナはロシアをICJ に提訴し、これを受けてICJ はロシアに対して軍事行動を停止する旨の仮保全措置命令を発出しましたが、ロシアはICJの管轄権を否定しているため、ICJ を通じた紛争解決の可能性も低いといえます。
戦争犯罪の責任者を裁いて国際の平和を回復する方法もあります。国際刑事裁判所(ICC)規程に基づき設立されたICC は、戦争犯罪等4 つの犯罪について管轄権を持ちます。ロシア軍によるウクライナの文民殺害や学校等民用物の破壊行為は戦争犯罪の構成要件に該当する可能性が高いといわれています。仮に該当した場合、実際の犯罪行為者だけではなく、犯罪行為者を指揮する立場の者も刑事上の責任を問われることになりますので、ICC はプーチン大統領に逮捕状を出すことが可能かと思われます。しかし、ICC の捜査官がプーチン大統領の身柄を拘束するためにはロシアに入国する必要があります。ロシアがこれを許可することは考えられませんので、結局ICC で戦争犯罪の責任を追及することも難しいでしょう。
国連の集団安全保障体制の実効性が安保理常任理事国の同意に左右されること、そして国際司法の手続が関係国の同意にかかっていることに鑑みると、国際機関を通じた紛争の解決に過度に期待を寄せることはできません。残念ですが、これが国際制度の現状で、ウクライナ問題を直ちに解決する術は存在しません。一方で、今年の3 月2 日に、国連総会でロシアを非難しウクライナからの撤退を要請する決議が採択されたことは希望ともいえます。総会の決議に法的拘束力はないとはいえ、国連加盟国193 カ国中141 カ国が決議に賛成したという事実はロシアも無視できないでしょう。この国際的な民意はロシアの国際法の遵守にもつながりうると思います。ロシアに否を突きつける国際世論の形成は、国の行動を決めることができる世界中の有権者の意思にかかっています。日本にいる私たちもその当事者であることを忘れてはなりません。
私が所属する国際法学会は、様々なトピックについて研究者が解説を行っている「エキスパート・コメント」というページを公式サイトに設けています。これも参考にして、国際法に関心を持ち、学び、考え続けていただければと思います。
研究者プロフィール
専門=国際公法
《プロフィール》(なかそね・すぐる)沖縄県生まれ。大阪大学大学院 法学研究科 博士後期課程単位修得退学。博士(法学)。2017 年宮城大学に講師として着任。2021 年より現職。