東北文化学園大学 現代社会学部 教授
意識せずに人を排除する社会
ホームレスと呼ばれる人たちや、引きこもりと呼ばれる人たちは、自ら「社会との対話」を拒んで、自分の殻に閉じこもっているように思われるかもしれません。しかしそれは間違いです。むしろ今の私たちの社会は、少しつまずいてしまっただけの人と対話しようとせずに、追い詰めたり追いやったりしがちだと言えます。そして一番の問題は、実は私たちが、意識せずに人を選別したり排除したりしてしまっていることなのです。
たとえば「近所の公園で、若い人たちが夜遅くまでしゃべっていてうるさい」という問題を考えてみます。公園を管理している自治体に苦情を言っても、なかなか改善されません。今は自治体も正職員が減らされ、非正規の職員を加えてギリギリで回している状態だからです。
2009年、東京の足立区は「モスキート」という機械を試験的に導入しました。蚊の羽音のような、高い周波数の音を発生させる装置です。年をとると耳の機能が衰えてまったく聞こえませんが、若者には耐えがたい音を夜の公園に響かせます。しかしこの装置で若者たちを公園から追い払い、住民の不満が解消されたとして、私たちはそれを「科学技術の勝利だ」「たむろする若者たちの非行を未然に防いだ」と喜べるでしょうか。
若者たちからすれば、「大人にも迷惑な人はたくさんいるのに、なぜ自分たちだけ狙い撃ちにするのか」「カネがないのに、公園以外のどこでしゃべれと言うのか」と思う人もいるでしょう。若者だけを選別し、公共の場である公園から排除しておいて、若者に社会参加を呼びかけても届くでしょうか。
私たちは専門知識と支援の経験を持つ人員を公園に派遣し、若者たちの話を聞くところから問題解決の道を探ることもできます。若者たちは悩み事や心配事を語り合っているかもしれませんし、生活や将来に大きな不安を抱いているかもしれません。もちろんエネルギーの発散の場を求めている可能性もあります。たとえば夜遅い時間まで使える公共施設を開設し、そこに相談員も配置したらどうでしょう。しかし今の日本の経済状況では困難であり、選挙で票になりにくいことも事実です。
不満や不安は若者に向かいがち
「公園のベンチにホームレスが眠っていて怖い」についても考えてみます。これに対してはベンチに、座れる人数に合わせた「ひじ掛け」(のようなもの)を設置して、横たわれなくするという対策が取られてきました。
「住み込みで働いていた勤め先を急に解雇された」「折り合いがすごく悪くて家族を頼れない」など、人が住まいを失う事情はそれぞれです。しかし今の私たちの社会は、そうした「眠る場所に困っている」一人一人を、ホームレスとまとめて呼ぶことで選別し、公共の場から追い払って排除しています。「明日は我が身」とか「住まいと仕事があれば自立できる人もいるのでは」といった想像力を、私たちはほぼ失っているのです。
もちろん政治や行政機関が、何もしていないわけではありません。2002年には「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」が成立するなど、厚生労働省や自治体が様々な施策に取り組んでいます。しかし私たち市民の多くが「自業自得」「自己責任」と思っているのでは、限りある予算や人員を振り向けるのは難しいでしょう。
私たちは皆、自分の生活を大切にしたいと願っています。しかしそのために公園にモスキートを設置したり、ベンチに「ひじ掛け」を増やしたりしてほしいと思ったでしょうか。問題なのはそうした判断をすることなしに、いつのまにか人を選別し、排除してしまっていることなのです。私は「社会との対話」というテーマは、こうした観点からも論じられるべきだと思います。
「引きこもり」の問題も同様です。いじめがきっかけの不登校や、就職活動の不調など様々な事情で苦しんでいる人を、まとめて「引きこもり」と決めつけることで、選別し排除してしまっています。これについても行政は数々の施策を打ち出していますが、社会の理解が十分だとはとても言えません。
なぜ私たちは自分とは別の世代に対して、また「ホームレス」や「引きこもり」に対して、対話を避けて厳しくあたってしまうのでしょうか。それは私たち自身が苦しいからです。日本の高度成長期やバブル期は、遠い過去になってしまいました。もちろん「もう経済成長をしなくてもいい」ということではなく、日本もまた持続的な成長に向けて歩みを続ける必要はあります。ただ同時に私たちは、日本中が再び好景氣に沸いて、他国にうらやましがられるようなことはもうないだろうとも思い始めています。しかしそう認められない人や、「自分は頑張ってきたのに、行政の世話になっている人間が許せない」と思ってしまう人は少なくありません。そしてそうした感情の矛先は、しばしば「いまどきの若者」に向けられてしまいがちなのです。
「自立=就労」を超えた支援を
社会学は、「質的調査」といって、対象となる人に直接会って長時間話を聞いたり、その社会集団に飛び込んだりして、今まさに起きている社会の変化を説明しようと試みます。その一方で、データや歴史を精査し、理論を構築する研究でも蓄積があります。私自身はG.H. ミードの「自我の社会学」を中心に研究してきました。人間は社会に生まれ他者と共に生きる中で自我を確立し、成長させていくという彼の主張には、強い説得力を感じます。
2002年に栃木県宇都宮市にある大学に採用されてからは、縁あって若者の支援活動に取り組む市民組織に関わってきました。2006年に厚生労働省が、若者の就労支援を行う「地域若者サポートステーション」、略してサポステを各地に開設した際、その市民組織も事業を受託して「とちぎ若者サポートステーション」の運営を開始し、現在に至ります。
現在サポステは全国に100以上あり、宮城県内でも3カ所が活動中です。ハローワークだけでなく教育や福祉を含む幅広い関係機関と連携し、就学も就労もしていない若者の、敷居の低い相談先として機能しています。「とちぎ若者サポートステーション」では、面談やパソコン講座に加え、雑談を通して同じような悩みを持つ人とつながり、なんとはなしの安心感を持ってもらうプログラムを実施しました。これが利用者には好評で、自宅からは出られても就労には踏み出せない若者には、こうした「対話の場」こそが必要であることが明らかになったのです。
実は当初、私は半信半疑で「みんな楽しそうだけど、この人たち、いつになったら就職できるのかな」と思っていました。ところが一緒にトランプをしたり雑談に加わったりするうちに、だんだんと元氣になっていく若者たちを見て、G.H. ミードの主張の意義を初めて実感することができたのです。
私はこのプログラムの参与観察で得た知見を元に論文を書き、臨床心理学者らと協力して本をまとめました。その中では、ドイツの哲学者アクセル・ホネットや、インド出身の経済学者アマルティア・センの理論も応用して、「サポステのプログラムの評価は、単に就労を果たした利用者の数だけでなく、自己承認など一人一人の内面の変化にも着目してなされるべきだ」と主張しています。
社会学の大物中の大物であるマックス・ウェーバーは、ある行為がその行為者にとって持つ意味の理解を重視しなければならないと説きました。たとえ共感できない人や行為であっても、私たちは「好き嫌い」を超えて、「どうしてそのような行為をするのだろうか」と考えたり、調査したり、データを分析することができます。そして、他者の行為を理解して、次に進むことができます。もちろんそのためには対話が、そして対話のためには「場」の設定が大切であることは言うまでもありません。
昨年からは、出身地である仙台の大学に奉職することになりました。大学の教員としてはもちろん、地域の一員としての自覚を持って、今後も実践的な研究に励みたいと考えています。
研究者プロフィール
専門=社会学
《プロフィール》(やまお・たかのり)1971年宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。東北大学大学院 文学研究科 博士課程前期2年の課程修了。同後期3年の課程 単位取得退学。博士(文学)。東北大学文学部 助手、作新学院大学人間文化学部 講師、准教授、教授などを経て、2021年より現職。一般社団法人 栃木県若年者支援機構スタッフ(とちぎ若者サポートステーション)。共著書に『ポストモラトリアム時代の若者たち―社会的排除を超えて』など。