研究者インタビュー

避難の呼びかけは届かなかった

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宮城教育大学 准教授
松﨑 丈 先生

聞こえない授業を受け続けた

 私は「ろう者」で、生まれた時から耳が聞こえません。意思疎通の主な手段は手話と文字です。本学で教員を務めており、聴覚障害領域の教員を目指す学生向けの授業は手話と文字を使って、それ以外の学生も受ける授業は、手話通訳者が私の手話を日本語の音声に通訳して行っています。

 ゼミでは双方向のやりとりが欠かせません。日本語の音声を使う「聴者」で手話ができない受講者は、話した言葉が文字になる「音声認識アプリ」で発言します。それを読んだ私が、パソコンに文字を打ち込んで別の画面で読ませるという形です。

 手話を使わない聴者には、「日本語の」音声という表現に違和感があるかもしれません。しかし主に手話を使う私たちにとって、日本語は「別の言語」なのです。手話は単に、日本語の「音声」や「単語」を手や指の表現に置き換えて、「日本語文法」の通りにつなげているわけではありません。日本語とは異なる言語体系があります。単語は、手型、運動、位置の3要素で構成し、手指だけでなく眉、あごなど顔の動きも使って文法情報を伝えます。従って手話が「第一言語」であるろう者にとって日本語は聞いたり話したりして自然に獲得することに困難があり、手話や文字などで日本語の読み書きを学ぶニーズがあります。

 私のようなろう者が大学教員になる例は極めてまれです。私の場合、家族を含めて身近に聴覚障害のある者は一人もいませんでした。父が大学教員で教員・保育士養成に携わっていたことから「自分も大学の先生になって障害がある子の氣持ちが分かる先生を増やしたい」と思ったのは小学生の時です。

 母は「聞こえる子と交流する中で学ばせたい」と考え、私を当時の聾ろう学校ではなく、地域の小学校の通常学級に入れました。2007 年に障害児の教育的ニーズに応じて必要な教育を行う「特別支援教育」が始まったことで、今の学習環境はかなり良くなっています。しかしかつての学校にそうした考えはなく、私は授業でほとんど配慮を受けられませんでした。

 先生の話が聞こえないので、勉強は教科書と板書が頼りの独学です。避難訓練では放送も先生の説明も聞こえず、ただ他の子たちの後について行くだけでした。災害時に最も大切な、「自分で情報を得て判断し、自分にとって最適と考えられる行動をとる」ことは、全くできなかったのです。

障害学生が学ぶ環境を整える

 私は「日本語」を学ぶため、聾学校でも補聴器を用いたトレーニングや、発音の指導を受けました。当時は「手話を使うと日本語が身につかない」という非科学的な認識が一般的だったのです。手話を覚えようと思ったのは高校時代で、大学生になってから一般向けの手話サークルに通って学びました。

 大学受験を控えた高校3 年になると授業が速く進み、口頭の説明ばかりで板書が少なくなりました。先生に「もっと板書してほしい」とお願いしたところ、断られた上に「聞こえていても君より成績の低い生徒のことを考えなさい」と叱られたのはショックでした。障害のある生徒を排除しながら、学校は一体どのような人間を育てるつもりなのかと怒りを覚えました。

 教員を養成する大学教員を目指して、まず自分が教員養成大学である本学に入学しました。聾学校教諭の免許を取るには、小中高のいずれかで教える基礎免許も必要です。最も得意だった美術科の教員養成課程を選びました。当時は障害学生の受け入れ体制はありませんでした。自分でやるしかないと考え、2年次に手話サークルを、3 年次に「ろう教育問題研究会」を立ち上げました。支援者を増やしノウハウを蓄積して、障害学生も学べる大学へと未来の教育環境を整えるためです。

 教員が話す内容が文字や手話で把握できることは、聴覚障害のある人にとって大きな意味があります。私は本学の大学院に進学すると、学生有志を募って「情報保障の会」を立ち上げました。話の内容をその場で書く「ノートテイク」をしてもらい、それを読みながら授業を受けたのです。感激しました。私は小学校から大学までの16 年間をほぼ独学で過ごした後で、初めて本当の意味で「授業に参加する」ことができたのです。

 東北大学の博士課程に進み、修了した2005 年に本学の教員に採用されると、すぐに全学的な支援体制づくりに取り組み、「しょうがい学生支援室」を立ち上げました。聴覚障害のある学生については手書きのノートテイクに加えて、電子機器が発達して通信環境も整ったことから、パソコン入力の画面表示や、先ほど説明した音声認識アプリも活用しています。

 本学の取り組みは先駆的ですが、今では他大学や小中高にも広がりつつあります。また社会全体でも、障害や手話への理解が進みました。しかし、聴者と同じように学んだり暮らしたりできる状態にはほど遠いことも確かです。そして平時ではなく災害時に、いかに必要な情報が得られずに苦しむかを、東日本大震災で思い知ることになりました。

支援関係の前に対等な関係を

 私は情報通信技術を聴覚障害のある者の学びや生活にどう活用できるかについても研究しています。2008 年に日本でスマートフォンが発売されてからは、緊急事態に備えて様々な機能を試していました。震災当日の地震発生時、私は学内の建物の3 階にいましたが幸い無事でした。しかし津波に襲われた沿岸部では多くの方が命を失いました。特に聴覚障害のある人は、サイレン、防災無線その他の避難の呼びかけが聞こえません。宮城県内で聴覚障害のある人が亡くなった割合は、全住民の死亡率の2 倍以上に上ります。

 停電のためにテレビもFAX も使えず、避難が遅れる上に情報収集も困難です。スマホのメールも回線の混雑で送受信に2時間かかるなどし、行政からの防災メールでさえ一部は不具合で配信されませんでした。また安否確認用の臨時電話が設置されてもFAX が導入されなかったり、自分のスマホがあっても手話での会話が可能なテレビ電話機能を知らなかったりしたのです。私自身はスマホの機能をフル活用し、集めた情報で食料を入手したり、逆に聴覚障害のある人への支援を呼びかけて連絡体制を構築するなどしました。

 こうした経験を踏まえて聴覚障害のある人の被災状況や避難生活での情報面の困難について調べ、当事者や支援側に助言するなどし、また研究論文にもしています。2013 年にスイスのジュネーブで開催された国連の防災プラットフォーム会合では、「東日本大震災における聴覚障害者とICT の問題」と題して国連の仙台防災枠組の作成に向けた提言を行いました。2021 年3 月にはNHK E テレの番組に出演してコメントし、この放送内容が「私たちは『逃げろ』の声が聞こえない」というタイトルでNHK のホームページに掲載されています。

 聴覚障害には他の身体障害にはない困難があります。それは「外見では氣づかれにくい」ために配慮されないことです。国は日本の聴覚障害者を障害者手帳所持者に限定して約24 万人としていますが、これは過少で公的な支援の対象になる認定の基準が他の先進国より厳しいのです。ろう・難聴は個人差が大きく、片耳の難聴や高齢による難聴もありますし、補聴器をつけていても多くは聴者と同じようには聞こえていません。ある調査では、日本で聞こえにくさを感じている人は1000 万人に上るとされています。外見では分からなくても、同じ地域や学校に十数人に一人は聞こえにくい人がいると考えれば、現在の広報体制や教育、そして災害時の避難誘導や避難所の運営に課題があることは明らかです。

 私は聴覚障害のある方々に、自分から障害やニーズを伝え、配慮や支援を求めるよう呼びかけています。一部の聴者の方々は「なぜ自分からそう伝えるのが難しいのか」と思いがちですが、それは障害やニーズを伝えても配慮や支援を断られ、排除されてきた経験があるからに他なりません。しかしそれでも災害に備えて、平時から自分の状態を知ってもらい幅広く関係を結んでおくことは、安全面でも情報面でもたいへん重要です。

 一方、聴者の方々にも、やはり平時からの障害のある人との交流を呼びかけたいと思います。もちろん手話を学んでいただけるのもうれしいのですが、まずは「支援する・される」という関係以前に、同じ地域で暮らしたり学校で学んだりする、対等な人間として接してほしいのです。そして時と場合によっては、障害のある人からの支援も遠慮せずに受け入れてください。私自身も研究や教育を通じて、また地域の市民として、障害のある人や防災の問題に取り組み続けていくつもりです。

(取材=2021年11月5日/宮城教育大学 3 号館1 階 松﨑研究室にて)

研究者プロフィール

宮城教育大学 准教授
専門=特別支援教育(聴覚障害領域)
松﨑 丈 先生

《プロフィール》(まつざき・じょう)1977 年広島県生まれ。宮城教育大学卒業。同大学院 教育学研究科 修士課程修了。東北大学大学院 教育学研究科 博士課程修了。教育学博士。2005 年、講師として宮城教育大学に着任。2009 年より現職。特別支援教育教員養成課程 聴覚・言語障害教育コース担当。しょうがい学生支援室副室長。東北大学非常勤講師。

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