【特別展「仙台の災害」講座Ⅲ】
「飢饉を生き抜いた人々の姿∼移動する人々∼」
講師:菊池勇夫氏(宮城学院女子大学名誉教授)
日時:2021年2月13日(土)13:30~15:00
場所:仙台市歴史民俗資料館
仙台市歴史民俗資料館「仙台の災害」関連イベントの3回目の講座です。講師は飢饉の研究、特に天明の飢饉を主な研究対象にしてきましたが、現在は天保の飢饉も研究を進めているそうです。天明の飢饉が1~2年の期間だったのに対して、天保の飢饉は7年程度続きました。シリーズ1回目の佐藤氏の講演では天保飢饉における仙台藩主など為政者側の対応を知ることができました。今回は一般民衆の対応です。
冒頭、まず、飢饉で見られる主な特徴を5つ挙げて解説します。
①急激に米価が高騰する。絶対的な米不足、領外への移出・販売、米商人等の隠匿や売り惜しみが原因。
②領主の飢饉対策がパターン化している。酒造りをはじめとした制限・禁止が行われる。
③飢人の行動がパターン化した。特に非人や乞食化が一般的だった。
④治安の悪化やモラル破壊が進行する。各人がそれぞれ生きることに必死になり、その結果モラル破壊が急激に起こった。
⑤疫病死を伴う。飢饉死といっても実際は餓死以上に疫病死が多かった。
天保飢饉は天明飢饉に次いで死者数も多く、仙台の人口も49万人から40万人と約9万人減少し、その後幕末まで増加しませんでした。天明飢饉より期間が長いこともあって、天明飢饉に劣らず厳しい状況だったようです。
次に、講座名にある-移動する人々-について講師の最近の研究論文の抜き刷りを配布資料に用いて説明を加えていきます。移動する人々とはより食料がありそうな地域へ移動する人のことです。隣接の他領へ行くのが通例ですが、東北では仙台へ向かう人も多く、天保7,8年頃になると江戸へ向かう人もいました。仙台藩は領内に比較的入りやすく、収容力もあり、新田開発の労働力確保のため流民達は留め置かれました。天明飢饉後の仙台藩の人口の回復や農村復興の動きには他領民も関係したようです。
移動する人々(流人)に関する資料は少ないとのことですが、幕府の昌平學にいた山田三川は「三川雑記」に比較的よく書き留めているそうです。これによれば東北諸藩をはじめ全国各地から江戸へ流れてきたといいます。流入者に対して幕府は「人返し政策」を行います。天保7年に品川、板橋、千住、四谷の四宿にお救外小屋を建てて流人を保護し、出身元を確認後、各藩の江戸屋敷を通じて国元へ帰すというものです。千住宿には東北地方からの流入者が多く、街道筋の藩からの流人でした。
講師によれば、飢饉に伴い疫病も流行したのは天保飢饉が概ね最後であり、飢饉で餓死することも少なくなってからは飢饉に代わり凶作が用いられることとなったそうです。1993年(平成5年)、東北地方は冷害による凶作となり、タイなどからの輸入米に頼ったことがありますが、食糧不足により飢えるということにはなりませんでした。世界的に見れば、飽食と飢餓の問題が顕著になっています。欧米など先進国で飽食と食品ロスがみられる一方、世界の飢餓人口は増えているとのことです。食糧の海外依存度が高い日本でも飽食や大量の食料廃棄が問題となっています。
講師はNHKテレビ番組で報じられていた人口増や地球温暖化の影響等による食糧危機の話題にも触れ、飢饉、飢餓状態の経験をもたない現在の日本や日本人に飢饉の発生に備えておくことの重要性を強調していました。
歴史から学ぶことはいろいろありそうです。
(仙台市 島田昭一)