近代国家が「暴力」を統制し始めた一方で、民衆による権威への「抵抗としての暴力」は、魅力あるものとして運動家には捉えられてきただろう。鶴見俊輔などは、まさにその代表である。
本書の眼目は、民衆による暴力のこれまでのあり方を、新政府反対一揆、自由民権運動期の秩父事件、日比谷焼き打ち事件、関東大震災時の朝鮮人虐殺の検討を通じて描き出すことにある。一方では一定の統制が取れた交渉手段として、他方では無軌道なないしは官製による残虐行為としての「民衆暴力」の姿が示されている。そして、決して「抵抗としての暴力」だけではなく、「民衆の民衆に対する暴力」があった事実を突きつけてくる。
歴史的な事実を踏まえつつ、「民衆暴力」の負の側面に直視しながら「抵抗としての暴力」は今日いかなる形でありうるのか。本書はその起点となるだろう。
(寺)