研究者インタビュー

災害によるコミュニティの移転を考える

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欧米ではコミュニティ単位での移転は珍しい

 2012年に設立された東北大学の災害科学国際研究所で、日本や他国で発生した災害や復興・防災について研究しています。日本で過去に発生した災害について詳しく調べ、復興や防災に役立てることはもちろん大切です。しかし数十年の時間が経過した災害の場合、今とは政治・経済・社会的背景などが大きく違っていることがあります。

 一方、世界に目を向けると、東日本大震災以後も巨大災害が相次いで発生しています。2013年にはフィリピンで台風によって、2018年にはインドネシアで地震と津波によって、何千人もの方が命を失いました。私たちは他国に震災の経験を伝えて防災や復興に貢献することと合わせて、同時代の他国の事例を調べて日本にとって貴重な知見を得ることが重要です。

 災害の発生後、政府が将来的な減災を目指して被災地への居住を禁じたり集団移転を促したりすることがあります。アジアではコミュニティ単位、集落単位で移転や現地再建が検討され、リーダーや行政が枠組みを決めるのが一般的です。しかし欧米では個人や家族の単位で考え、被災者を支援する宗教的な慈善事業、政府の支援プログラム、保険事業などをベースに、移住や現地での再建が動き出します。21世紀に入ってからはアジアでも行政が上から命じるのではなく、住民が主体的に判断し、行政がそれを支援する形が増えてきました。また西洋でも個人だけに責任を負わせるのではなく、行政が介入して復興を進めるようになってきています。

 同じコミュニティ移転でも、強制的か自発的かによって住民の満足度は大きく違います。もちろん国や地域、災害の種類や規模によってケースは様々です。2010年にインドネシアのメラピ山が噴火した際は、被災した現地コミュニティの自発性を促す公的な移転事業が注目されました。住民たちは従前に住んでいた土地が危険地域に指定されたあと、国が派遣した職員の助言を受けながらも、自分たちで集落の移転先を決め、住宅・コミュニティの再建を遂げたのです。国際的な枠組みで国に支援された資金の一部を自分たちで管理し、都市計画や建築の専門家や大工職人を直接雇うなどして集団移転を実現しました。

 フィリピンで、台風による高潮が沿岸部を襲ったのは2013年です。私は現地の大学生を指導しながら、1万4千世帯が対象となった大規模な住民移転を6年にわたって追跡調査しました。当初は沿岸部から離れた土地に移転したいという住民の希望が多かったのですが、やがて生活を継続するために移転したくないという人が増えていきます。しかし最終的には、移転先での生活環境が改善されるに従って満足度が向上しました。

 最初にしっかりと移転計画を立て、ほぼそれに沿って実現に至る日本は、世界的には特別です。しかし東日本大震災の際に女性・障害者・高齢者・外国人などが避難所で不自由を強いられたように、まだまだ支援や復興の形に改善の余地があります。コミュニティの移転や維持においても、こうした人々の声を反映させる仕組みが必要です。

米国の大学院で新潟県中越地震を研究

 2013年にこちらに赴任するまでは、主に発展途上国の都市や地域の開発計画や防災計画業務に携わってきました。新しく道路や建造物を造り経済的発展を図ったり、自然災害の影響を低減し開発努力の妨げを未然に防いだりすることに取り組んできました。しかし、業務に携わるうちに、開発によって住まいを追われることで精神的・経済的負担を強いられる人々、政策や事業を行うことで抑圧されたり取り残されたりする人々が多くいることも目のあたりにしました。その大部分は貧しかったり、高齢だったり、障害があったり、少数民族だったりという、社会的弱者や少数者です。

 私がこうした「弱者・少数者」に強い関心を持つようになったのは、自分自身の経験からです。私は四国の生まれですが、幼少期に父の仕事の都合で米国のボストンに引っ越しました。当時は日本人どころかアジア人も少なかった土地です。突然「珍しい東洋人」になってしまった私は、当事者として弱者・少数者の問題を考えるようになりました。

 大学は日本に戻り、都市計画を学びました。卒業後に勤務した日本の開発コンサルティング会社で主に関わったのは、外務省の所管で発展途上国を支援するJICA(ジャイカ)の事業です。途上国の開発や経済援助は、かつてはインフラの整備が中心でした。ダム、発電所、道路、鉄道などを造って経済的・社会的な基盤を先進国に近づけようと、ハードに力を入れていたのです。しかし、国際社会では、やがて自然や住民に配慮した持続可能な開発や、人道的配慮のある発展を模索するようになってきました。そして今では、そこに暮らす人々の経済的な豊かさに限らない生活の充実を図る、ソフトにも目が向けられるようになったのです。こうした仕事に10年間携わる中で、私は特に災害における弱者・少数者の問題と、インフラなどのハード整備の両立に関心を深めるようになり、より専門的に学び直そうと米国の大学院に入りました。

 2004年、コーネル大学で研究を始めて間もない10月に、新潟県中越地震が発生しました。最大震度7、死者46名、避難者が10万人を超えた大災害です。当時の私の主な研究対象はフィリピンのマニラ首都圏における防災の取り組みでしたが、中越地震の被災者の生活や地域の復興には強い関心を持って注視していました。

 2006年に進学したイリノイ大学では、中越地震の復興過程について研究することにしました。集落の移転を中心テーマに定め、現地には2008年から翌年にかけて、合わせて半年ほど滞在しています。それまでは統計や地理情報システム(GIS)を活用した分析など、効率的でかつ視覚的にも効果のある「量的」な研究手法に関心がありました。しかし行政や住民の方々にお話を聞く中で、社会学やエスノグラフィー(民族学)の「質的」な手法も取り入れるようになります。

 主にお話をうかがったのは小千谷市と、現在は長岡市になっている山古志村の方々です。聞き取りを繰り返し、信頼関係ができるにつれて、本心を打ち明けていただけるようになりました。また地域に長く身を置くことで、発言の背景や考え方も理解できるようになっていきます。復興に関する政治的な力関係など、数値には表せない複雑な事情も見えてきました。

東日本大震災を機に再び日本へ

 その後、2010年から世界銀行に勤務しました。途上国への融資、技術協力、政策助言などを行う国連の専門機関です。私は都市問題を扱う部署で、都市開発と交通の調査研究を担当し、本部がある米国の首都ワシントンDCに住んでいました。

 東日本大震災の発生は、現地では日付が3月11日に変わって間もない深夜でした。パソコンを閉じて眠ろうとした時、日本の友人の「大地震が起きた」というメッセージが画面に表示されたのです。NHKの海外向けテレビを見ると、東日本の海岸線すべてが赤く表示された日本地図が映り、それが津波襲来の予測であることに衝撃を受けました。そして地震、津波、後には東京電力福島第一原発の被害映像を次々と目にしたのです。

 それまで東北地方には縁がなく、知人もあまりいませんでしたが、勤務に備えてベッドに入ってもほとんど眠れませんでした。職場の同僚は世界中から集まっています。出勤するとみんなから声をかけられましたが、大きな災害を経験している国の出身者は特に心配してくれて、「きっと日本は立ち直るよ」と励まされました。

 6月には米国の地震工学会のメンバーが現地調査に赴くことになり、これに同行しました。9月には再び現地を訪ね、自主的に調査を行っています。私のそれまでの仕事や研究は、決められた期間で成果を出して、提言や発表をしなければなりませんでした。時間的制限のもと策定した提言が、途上国の人々に響かなかった経験もあり、もっと時間をかけて災害復興の経過を追い、真実を知りたいと思ったことは少なくありません。東日本大震災の復興にはぜひ長期的に取り組みたいと思い、震災後に設立されたこの東北大学災害科学国際研究所に応募しました。

 海外で授業や講演をすると、終了後に学生や聴衆からたくさんの質問を受けます。それに答えることは私にとっても貴重な学びですが、日本ではそうした質問が控えめなのが残念です。私自身は自らの興味や疑問から出発し、考えたり調べたりするうちに、さらに興味を持ったり疑問を抱いたことへと学びを広げてきました。皆さんにも知的好奇心を大切にし、関心を広げて学び続けていただきたいと思います。

(取材=2020年11月20日/東北大学青葉山キャンパス東北大学災害科学国際研究所5階 人間・社会対応研究部門 被災地支援研究分野研究室にて)

研究者プロフィール

東北大学災害科学国際研究所 准教授
専門=都市計画・建築計画
井内加奈子 先生

《プロフィール》(いうち・かなこ)徳島県生まれ。筑波大学第三学群社会工学類卒業。米国コーネル大学で修士、イリノイ大学でPh.D.(博士号・地域計画)を取得。開発コンサルティング会社、世界銀行などでの勤務を経て、2013年より現職。編著に、The 2011 Japan Earthquake and Tsunami:Reconstruction and Restoration – Insights and assessment after 5 years(和訳:2011年日本の地震と津波:復旧と復興 – 5年後の見通しと評価)(Springer)など

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