音楽への招待 「時代の音」レクチャーコンサート・シリーズ
第4回公演「言葉がうたわれる時」
講 師:波多野睦美 氏(メゾ・ソプラノ)
ゲスト:高橋 悠治 氏(ピアノ)
日 時:2010年6月19日(土)
場 所:東北学院大学泉キャンパス 礼拝堂
「Down by the Sally Garden’s」
至福の時空を紡ぎだすあの歌声を聞いてから16年が経つ。
礼拝堂のドームの中で、時は移ろい、エアはたゆたい、
構えることもなく音と言葉の世界が発生しては消滅してゆく。
その始まりの音と終わりの音は、どのような弱音であれ強音であれ、
明確な輪郭を持って立ち表れては消えてゆく。
肉体とともにある、息づかいとともにある、音楽のひととき。
女は云う。
「私は筒になりたい」
自分の中に節があり、あるいは藤壺のような余計なものが貼りついており(そのようなものを自分の中に作ってしまったのは自分なのだが)、そのようなものを剥がして一本のきれいなパイプオルガンの筒のような体となって音=声を発することができるようになりたい。
さらに云う。
「若いころ日本の歌曲(日本語の歌詞)は生々しく感じ、外国語の歌詞のほうが入りやすかった」
アクセントとイントネーション、強と弱、シラブルなど、言葉と楽譜の表している複雑な世界を表現したいと思うようになり、日本の歌を歌うようになった。
音、声、言葉は聞こえるが見えない。楽譜、文字、絵、記号は見えるが聞こえない。
人はこのような未熟なものの数々を工夫しながら意思疎通の方法に使ってきた。
うまくいったときは飛び上がらんばかりに喜び、
うまくいかないときは自分を呪い自失する。
人として真摯に生きていくことを志し、この得意と失意を潜り抜けてきた者は、
さらにこの乖離を見極めながら粛々と歩みを進めてゆく。
その姿に、観客の一人である私は感動する。
当日の演奏会は、ゲストに言及しないわけにはいかない。
ピアニストが眼前に現れ、音があふれ出した、とでも表現すればよいのか。
時折、時代の話題の中に耳にする名前だった。縁薄くその音楽に触れる機会も無かった。はるか遠景の人でしかなかったその人が、居た。
子供のころから音楽とともに生きてきたのであろう、そのたたずまいの自然なこと。礼拝堂の少し長めの残響が耳ざわりにも感じたが、ピュアな音色に聞きほれてしまう。
宇宙のどこかでいつも奏でられているような錯覚に襲われながらステンドグラスの光を仰いだ。
お話をしては歌い、歌ってはおしゃべりし、問われれば答え、演奏してはお話をする。
その立ち居振る舞いの中に生活と音楽があった。
(仙台市青葉区・男性 文字翁)