研究者インタビュー

宮城の農業用水は世界のお手本

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県庁職員から50代で大学教員に

 私は大学を卒業後、農業土木の技術者として30年以上働いてきました。宮城県の職員から大学の教員になったのは6年前、54歳になる年です。

 きっかけは2001年、県庁に在籍したまま国際協力事業団(現・国際協力機構)が派遣する、水田灌漑(かんがい)の技術協力専門家として中国に赴任したことです。農業の近代化と食糧増産に力を入れていた当時の中国で、全国の計画立案に2年間携わりましたが、高校時代に青年海外協力隊員にあこがれて農業土木の道を志したこともあって、大きなやりがいを感じました。

 家族とともに北京で暮らす一方、中国各地の農村を回ったことで、日本の農業の素晴らしさが改めて分かりました。中でも、日本の農家が主体的に築いてきた農業用水の管理組織が、きわめて優れていることに氣づいたのです。

 水田稲作に限らず、農業にとって水が重要であることは言うまでもありません。途上国でも先進国でも、水資源の6割から7割は農業用水として利用されています。農地に水を引く灌漑、給水・排水を制御する用排水、水温調節や水路の保守など、水の管理には高度な技術が欠かせません。そしてその管理は農業以外にも、自然と人間との共生、景観の創造や保護、生物の多様性、さらには防災・減災などの広い分野に関わっているのです。私は日本の農業用水やその管理について、改めて勉強し直したいと考えました。

 帰国後、大学時代の恩師に相談したところ、大学院で学んで論文にまとめることを強く勧めていただきました。実は行政職員も、研究職や私のような技術職は、学会に所属して研究発表を行うことが少なくありません。しかし研究者や大学の教員になろうと思ったことがなかった私は、大学院進学は全く考えていませんでした。もし大学院で学ぶとしたら、勤務を続けながら社会人入学することになります。悩み、また家族にも相談した結果、挑戦を決めました。

 それまでの業績が認められ、博士前期課程(修士課程)ではなく博士後期課程の入学試験を受けられることになりました。職務の傍ら試験勉強に取り組み、中国から帰国した翌春に入学。44歳になる年から、3年間の大学院生活が始まりました。

 平日は中間管理職として毎日のように夜9時頃まで残業し、土日はフィールドワークと論文作成。やり遂げられたのは勤務先、ご指導いただいた先生方、そして家族のおかげです。博士号の取得後も7年間勤務しましたが、宮城大学の公募があることを知り、研究を深めるとともに今までとは違う形で自分の知見を社会に役立てたいと考え、転身に踏み切りました。

大崎耕土の水利事業を世界が認めた



 博士論文のテーマは宮城県の江合川水系、いわゆる「大崎耕土」における農業水利です。仕事で歩いてはいましたが、大崎地方を改めて調べてみると、古くから続く農家の知恵と努力に圧倒される思いでした。宮城県は、江戸時代に「伊達62万石」「実力は100万石」と言われた仙台藩の領地と重なっていて、質・量ともに米どころとして知られています。しかし実は、決して稲作の適地ではありませんでした。

 江戸時代から新田開発が盛んでしたが、一方で洪水や水不足にたびたび苦しんできました。また東北の太平洋側では、稲作にとって大切な初夏を中心に、「やませ」と呼ばれる風が吹き込んで冷害をもたらします。江戸時代は単位面積当たりの米の収穫量が、現代の半分程度に過ぎませんでした。こうした厳しい自然条件や災害を農家が力を合わせて克服し、高度な水利事業を主体的・組織的に積み重ねたことで、米どころになったのです。明治以降は農地や用排水施設の整備が進み、品種改良や育苗の技術も向上しました。戦後になると農地改革や農業機械の導入もあって、宮城の稲作はさらに発展します。

 2017年、1市4町(大崎市、涌谷町、美里町、加美町、色麻町)にまたがる大崎耕土は、国連の食糧農業機関によって「世界農業遺産」に選ばれました。厳しい自然条件や災害を克服し、巧みな水管理や「居久根(いぐね)」と呼ばれる屋敷林によって豊かな農業・農村を築いてきた歴史と現状が、世界のお手本になりうると評価されたのです。

 世界農業遺産の認定は、昨年の時点で21カ国58地域に過ぎません。大崎耕土には伝統的な水管理システムをはじめ、居久根を含む美しい景観、個性的な食文化や祭り、そしてマガンの飛来地として世界的に有名な蕪栗沼などがあります。私たち宮城に暮らす人間にとっては見慣れた農村風景だとしても、世界から見れば人類の大いなる財産なのです。

 私は、最初は自治体に助言する立場で、最後には調査に訪れた外国人の方々に現地で説明する立場で、この認定に関わりました。ユネスコが認定する世界遺産と同様、世界農業遺産も認定がゴールではありません。息の長い取り組みで地域の価値を広め、伝えていく必要があります。農業生産物のブランド化や観光地としてのアピール、交流人口の増加といった経済的価値の向上も大切です。しかし私たち宮城県民が歴史を知り、誇りを持って未来へつなぐことこそが、何よりも大切だと思います。

東日本大震災と昨年の台風19号



 2011年の東日本大震災では、宮城県の農業も甚大な被害を受けました。発災から9年を経て、農地や用排水設備などの復旧事業は、ほぼ計画通りに進んでいます。

 県の職員だった私は、2012年には栗原地域事務所の農業農村整備部長を、その1年後には農林水産部に新設された、農地復興推進室の初代室長を拝命しました。重い責任を負う立場で考えていたのは「未来につながる復興とはどうあるべきか」です。震災前から米の消費量は減り、米価は低迷し、多くの農家が後継者難に悩んでいました。単なる復旧では、そうした状況に歯止めをかけることはできません。私は農業土木の専門家として、新たな農地整備への取り組みを決意しました。

 田植えや稲刈りの機械化などによって、稲作の労働は大いに軽減されました。しかし水の管理に関しては、水深の調整や水路脇の草刈りなど、人の目で確かめ、人の手を必要とする仕事がたくさん残っています。新しい技術でこの手間を減らせれ
ば、労働時間の短縮や後継者の確保につながるはずです。

 用排水については、水路の開閉設備の近接に取り組みました。たとえば田に水を張るときは、排水路を閉めてから用水路を開きます。しかし用水路と排水路には高低差が必要で、それぞれの開閉設備間に距離があるため、徒歩で巡回せざるをえませんでした。そこで以前からパイプが導入されていた給水に加え、排水もパイプで行うことで、両方の開閉作業を1カ所でできるようにしたのです。全国的にも先駆的なこの試みは、既に大きな成果を上げています。

 排水路のパイプ化で、水路脇の草刈りの手間も大いに軽減されました。残る難題は田と田の間の畦(あぜ)の草刈りです。これは畦の幅を大きく広げ、除草用の機器を取り付けたトラクターが通れるようにすることで解決しました。耕作面積はその分減ってしまいますが、それを補って余りあるほど、除草作業の軽減は大きな課題だったのです。こうした新しい農地整備事業を進める上で、農家の方々に説明を尽くし、意見交換を重ねることの大切さも、改めて知ることができました。

 昨年10月の台風19号は河川の氾濫や堤防の決壊による水害をもたらし、宮城の農業はまたも大きな被害を受けました。復旧・復興はもちろん大切ですが、一方では防災や減災についての、新たな考え方や取り組みも必要です。たとえば豪雨については水田をダムに見立て、排水口に水を自然調整する装置を取り付け、畦を超えない程度に水を調節しながらゆっくりと流す「田んぼダム」の技術が、既に始まっています。

 伝統的な水管理技術や組織に加え、こうした先進的な日本の取り組みは、国際貢献の面でも大きな意義を持っています。私も研究、教育、農業と農村の振興に加え、国外での活動にも力を入れてきました。そして最後に市民の皆さんには、私自身の経験に基づいて、「勉強を始めるのに遅すぎることはない」と申し上げたいと思います。

(取材=2020年2月17日/仙台市青葉区・漁信基ビルにて)

研究者プロフィール

宮城大学 事業構想学群・食産業学群 教授
専門=農業水利学
郷古 雅春 先生

《プロフィール》(ごうこ・まさはる)1960年宮城県生まれ。岩手大学農学部卒業。岩手大学大学院連合 農学研究科 博士後期課程修了。博士(農学)。技術士(農業部門・農業土木)。宮城県庁に勤務し、栗原地域事務所 農業農村整備部長、農林水産部 農地復興推進室長などを歴任。2014年より現職。

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