研究者インタビュー

研究者としてがん免疫療法に挑む

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小学生のとき志賀潔先生に面会

 私は母校である東北大学で研究生活を始め、宮城県立がんセンター、東北福祉大学に勤務しました。78歳の現在も、仙台微生物研究所の代表として研究を続けつつ、クリニックで主にがんの患者さんの治療にあたっています。

 私の父、田山利三郎は東北大学理学部の教授で、海洋地質学者でした。珊瑚礁の研究で業績を残しましたが、1952年、伊豆諸島南部の明神礁の調査中に火山噴火に遭い、55歳で亡くなりました。私は6人きょうだいの5番目で、当時は小学校5年生です。高校の教員だった母は、私たちを養うだけの収入を得ようと、苦労して法務職に転じました。奨学金のお世話にもなりましたが、今の私があるのは母のおかげです。

 私は仙台市の生まれで、東北大学教育学部の附属小・中学校に通いました。父の仕事もあって子どもの時から研究職を志していましたが、目標は医学でした。大学生だった兄が、病氣で休学を余儀なくされた経験もきっかけの一つです。しかし氣持ちを固めたのは、父を失う少し前に、志賀潔先生にお会いする機会を得た時でした。

 志賀先生は赤痢の病原菌を突き止め、その後も免疫学や化学療法の分野で世界をリードした大研究者です。晩年は出身地である仙台にお住まいで、そのお孫さんと私は小学校の同級生でした。学校からのお願いがかない、担任とクラスの代表数名でご自宅にうかがわせていただき、大変感激しました。自分も研究者になって、新しい治療法を見出そうと決意したのです。

 中学時代には、これも偶然から日沼頼夫先生にお会いしています。後にウイルス学者として成人T細胞白血病ウイルスの発見でノーベル賞を期待されながら、惜しくも受賞に恵まれなかった方です。当時は東北大学大学院を修了なさったばかりで、私が研究生活に入ったときに再会し、同じ研究室で薫陶を受けることになります。

 高校時代は勉学……ではなく、仙台二高でバレーボールに熱中しました(笑)。当時は県内の強豪校です。1年生から試合に出て新人戦で優勝し、キャプテンになって2年、3年と連続でインターハイに出場しました。今でも良い思い出です。

ウイルス・染色体からがん治療・免疫学へ

 東北大学医学部に入学し、2年次からは尊敬する石田名香雄先生の授業が始まりました。先生は助教授でいらした当時から細菌学の世界的権威で、東北大学で教授、医学部長、学長を歴任された方です。先生の講義と実習に、私は全力で取り組みました。医学研究を志した以上は、世界的な先生の下で、世界に通じる仕事をしたかったからです。幸い、早くも医学部3年次で研究室からお声がけをいただき、夏休みや冬休みにはお手伝いをさせていただくことができました。

 石田先生の研究室は「細菌学」を掲げていますが、ウイルスの研究も行っていました。細菌は単細胞生物で顕微鏡により見られますが、さらに小さく細胞を持たないウイルスは電子顕微鏡でなければ見えません。先生は1953年、新種を発見してセンダイウイルスと名付け、これが後にB型肝炎ウイルスの研究に大きく寄与します。私の最初の研究対象もウイルスでした。

 大学院に進んだ当時、石田研究室には先生を慕う研究者が全国から集まり、その数は60名にも上っていました。出身も医学部に限らず、理学部、農学部、薬学部と多彩で、院生同士の議論が非常に活発でした。多様なものの見方、考え方に触れることで、私は研究において、何が分かっていないかを知って新しいものを見出す「知らずを知る」の大切さを学んだのです。

 研究室には石田先生に代わって院生を指導する方が何人かおられ、私は本間守男先生につくことになりました。私の院生時代に助教授になられ、山形大学と神戸大学で教授を務められます。石田先生が発見したセンダイウイルスの研究を引き継ぎ、細胞遺伝学の分野に大きく貢献なさいました。

 この本間先生が本当に厳しくて……(笑)。何度も怒られてやめてしまう人がいたほどですが、私は認められるまで頑張りました。「お前は染色体をやれ」と言われ、まだ本格的な研究が始まったばかりだった染色体に挑みます。苦労しましたが、この院生時代に書いた『感染と染色体異常』という本は、名誉なことに石田先生との共著として発行され、広く読まれることになりました。

 大学院修了後は米国ペンシルバニア大学のウイスター研究所に留学し、東北大学に戻ってからは、講師・助教授として、石田先生の代わりに授業を受け持ちながら研究を続けました。石田先生は研究対象を、細菌・ウイルスからがん治療・免疫学にも広げ、私が学部生だった1965年には、仙台市内の土壌からネオカルチノスタチンという制癌性抗生物質を発見されています。ただし副作用が強く、現在は治療には使われていません。私も関心をがん治療、中でも副作用が少ない免疫療法に移し、宮城県立がんセンターに新設された研究所で、免疫学部長として研究に専念することになりました。

研究に基づきBAK療法を開発

 私が県立がんセンターに赴任した1993年当時、がんは既にいろいろな治療法が発見されていました。健康保険が適用される標準療法も、抗がん剤の副作用や手術・放射線照射による体への負担は、決して小さくありません。しかしがんは発症の原因も部位も様々な上、転移や再発もあって、全てのがんを治す決定的な治療法は今でもないのです。

 その一方、免疫療法が期待を集めていました。免疫とは自分の体の組織と異物を区別し、異物を排除して体を守る働きのことです。異物には体外から入ってきた細菌やウイルスのような「外なる異物」と、ウイルスによって冒された細胞やがん細胞のような「内なる異物」があります。これらを排除するのが、免疫細胞である白血球です。

 この免疫力を高めて病氣への抵抗力を向上させたり、体が持つ自然治癒力で病氣を治すのが免疫療法です。がんの場合、白血球の機能を活性化したり数をふやしたりして、がん細胞の増殖を抑えます。ただし標準療法に比べて研究が遅れたことから今も発展途上にある上、「免疫療法」と称する科学的根拠のない治療が高額で行われていることも事実です。免疫細胞の研究者である本庶佑氏が昨年ノーベル賞を受賞されたのは本当に喜ばしいことですが、その成果であるがん治療薬オプジーボも、残念ながら副作用と無縁ではありません。

 私が県立がんセンターで研究したのは、一般的な「キラーT細胞(CD8陽性細胞)」ではなく、自ら発見した「CD56陽性細胞」を用いる免疫療法です。そして、血液がんには効果がないものの、固形がんに対しては標準療法や他の免疫療法に比べて効果が高い上、副作用もない「BAK療法」を開発しました。多くの論文を発表し、独自技術に基づく免疫細胞の活性化では特許も取得しています。しかし県立がんセンター在職中は環境に恵まれなかったこともあって、実際に治療するまでには至りませんでした。

 65歳で県立がんセンターを退任し、東北福祉大学の教授に就任した際、研究と治療を行うために「免疫療法センター」と「仙微研クリニック」を開設して代表者になりました。また、恩師である石田先生が1989年に設立された「仙台微生物研究所」の理事長職を、2007年から受け継いでおります。

 「BAK療法」は発表直後、私に無断で名乗られ、全く別の治療を行われた苦い経験から、現在は厳しいコントロールを加えています。もちろん私の希望はこの療法が広く認められ、保険も適用されて多くの患者さんを救うことです。

 私は今、「統合医学」を提唱しています。西洋医学と漢方医学の統合という意味ですが、それ以上に患者さんの心を大切にする医療という意味で使っています。西洋医学は病氣を、漢方医学は症状を見ますが、私は患者さんのQOL(生活の質)をこそ大切にしたいのです。がん治療でも、がん細胞を完全に消してしまうことができないのであれば、むしろ共生して充実した人生を送るよう発想を転換するべきではないでしょうか。免疫について、がんの免疫療法について、また統合医学について詳しくお知りになりたい方は、私の近著『がんと共生して長生きする最新免疫治療』をお読みいただければ幸いです。

(取材=2019年5月20日/仙台微生物研究所 代表理事室にて)

研究者プロフィール

公益財団法人 仙台微生物研究所 代表理事
専門=免疫学・腫瘍学・微生物学
海老名 卓三郎 先生

《プロフィール》(えびな・たくさぶろう)1941年宮城県生まれ。東北大学医学部卒業。医師。東北大学大学院 医学研究科修了。医学博士。1971年から1973年まで、東北大学医学部助手としてアメリカ合衆国ペンシルバニア大学に留学。帰国後、医学部細菌学講座にて講師、助教授。1993年、宮城県立がんセンター研究所の設立にあたり免疫学部長。2006年の退任後、2016年まで東北福祉大学健康科学部で教授、特任教授を務めた。あわせて仙微研クリニック院長、免疫療法センター長となり、2007年に財団法人仙台微生物研究所理事長に就任。公益財団法人化にともない、2014年より現職。1982年に日本科学技術映画祭優秀賞を、1992年に国際感染症学会賞を受賞。著書に『がんと共生して長生きする最新免疫治療』『科学者の心―セレンディピィティ』『頭は文明に 体は野蛮に―海洋地質学者、父・田山利三郎の足跡』など。

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