研究者インタビュー

においは鼻と口と脳でかぐ

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コーヒーの香りは人の行動を変える

 私たちは困っている人を見かけて「力になりたい」と思っても、実際に声をかけることはためらいがちです。ところが昨年の10月、私が監修した食品メーカーの心理学的な実験では、たいへん興味深い結果が得られました。

 まずインターネットで千人にアンケートを取ったところ、「困っている人を見かけても見ないふりをしたことがある」と答えた人は75%に上りました。そこで、困っている人に声をかける人の割合が、コーヒーの香りが漂う場所では増えるかを調べることにしたのです。100名の方に集まっていただき、実験内容を伏せたまま、屋外の指定のコースを歩いてもらいました。そして「木に引っかかった物が取れない」「落とした物が転がってしまった」という人に“遭遇”してもらったのです。

 有効な結果だけを数えると、コーヒーの香りが無くても手助けした割合は14%(77回中11回)で、香りがあった場合は46%(82回中38回)でした。心理学では、香りと人の親切行動に関係があることはよく知られています。今回もコーヒーの香りが、他人を助けようとする人の後押しをするという明確な結果が出ました。私が行った別の実験でも、コーヒーの香りがストレスを減少させることが分かっています。

 心理学は文系でもあり理系でもある学問で、私は文学部・大学院文学研究科と電気通信研究所の両方に所属しています。感覚について脳科学の成果も用いて研究しているのですが、においについては、新しいことが次々と分かってきました。

 人間の感覚としては、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚が知られています。これを「五感」と呼ぶのはあくまで総称で、温度や振動の感覚なども「触覚」に含めた表現です。この五感の中で、人間にとって最も重要なのは視覚だとされてきました。一方で嗅覚は軽視されがちでしたが、実は他の感覚と比べても、その役割は小さくありません。むしろ二つの意味で、「五感の中心」だとさえ言えるのです。

 一つは情報源との距離です。視覚と聴覚は、遠く離れていても情報が得られます。味覚と触覚は、接しなければ感じられません。そしてにおいは、その中間にあたるのです。動物は食料を得るために、そのありかを探る必要があります。一方では敵や危険から逃れるために、やはりその位置を察知しなければなりません。人間も、熟した果実や食べられる動物のにおいに近づき、危険な動物や山火事のにおいから遠ざかることで、現代まで生き延びてきたのです。

女性が男性を選ぶのは視覚か嗅覚か

i 私が「嗅覚こそが五感の中心だ」と考えるもう一つの理由は、脳科学の成果によります。他の感覚に比べると、嗅覚こそがもっとも生物としての根幹にあると言えるのです。

 視覚は脳の後方およそ3分の1にも上る部分に関わっています。一方で嗅覚が関わっているのは、大脳皮質の「海馬(かいば)」という部分。これは動物の進化過程でも古くからある部位で、本能的な行動や記憶に関係しています。つまり嗅覚は、動物が生き延び子孫を残すために不可欠な脳の部位と、深く結びついているのです。視覚情報は、現代の人間にとって確かに重要です。聴覚とともに、文明の発達を促してきたと言ってよいでしょう。しかし嗅覚は、私たちが生きる上での核とも言える機能に関わっているのです。

 動物は自分の命を危険にさらしてでも、わが子の命を守ろうとすることがあります。生物学では、自分という個体の維持よりも、自分が受け継いだ遺伝子を残す方を選ぶからだ、という考えが有力です。動物のオスができるだけ多くの相手との間に子どもを作ろうとすることも、この考え方で説明できるかもしれません。一方メスの方は、自分が生む子どもの生存確率を上げようとして、しっかりと相手を選びます。

 遺伝子の配列が似ている両親からは、病氣や環境の変化に弱い子どもが生まれがちです。そしてその配列の情報が、実は体臭の違いに表れていることが分かってきました。既にネズミの実験では、メスがにおいをかぐことで、自分と異なる遺伝子配列を持つオスを選ぶことが確かめられています。

 人間も両親が持つ「HLA遺伝子」の配列の違いが大きいほど、子どもが病氣に強くなるという研究があります。女性が自分とは違う配列の遺伝子を持った男性を見抜き、パートナーに選ぶことはあり得るでしょうか。教えている女子大生にアンケートを取ると「見た目で好きになるし、においで嫌いになる」という人が大多数です。しかし人間の女性も、男性のにおいから自分との遺伝子配列の違いを知ることができるらしいことが明かされつつあります。研究の進展を楽しみにお待ちください。

子どものうちに感覚の幅を広げよう

i ふだん私たちは五感を個別に意識することは少なく、様々な情報をまとめて受け取り、統一的に認識しています。中でも嗅覚は他の感覚、特に味覚と触覚と関係が強く、「味のほとんどはにおいだ」と言ってもよいほどです。

 私たちは味がほとんどしないはずの水を飲んでも、同時にバニラのにおいがすれば甘味を、レモンのにおいがすれば酸味を感じてしまいます。ですから炭酸飲料などは色とにおいを変えるだけで、実は味は1種類でも、多様な果実を称する商品を作ることができてしまうのです。また、治療で塩分や糖質を控えた食事が必要な場合は、においで味を感じてもらい、満足感を高めることも可能です。

 香料の開発が進んだ今、私たちは飲食物だけでなく、トイレや車の芳香剤、洗濯の際に用いる柔軟剤など、様々な「作られたにおい」をかぎながら暮らしています。「おいしくなる」「香りで氣分が上がる」「肌触りが柔らかく思える」など、においの効果は絶大です。しかし食品添加物は使って良い物質が決められていますが、香料は使用できない物質しか決められていません。過度の利用には慎重さも必要です。

 医学では実際には効果がない薬でも、医師や薬への信頼感・安心感だけで症状が改善する場合があることが知られていて、偽薬効果、またはプラセボ効果と呼ばれています。脳は錯覚するのです。錯覚も悪いことばかりではありませんが、商品の効能書きやパッケージデザインは、冷静に受け取る必要があるでしょう。たとえば日本で「アロマセラピー」と呼ばれているものには、治療効果が科学的に証明されていないものもあり、言葉で説明を受けた後に始めてリラックス効果が見られるものもあります。

 また高齢者の「においがおかしい」「味が変だ」という訴えから、脳の異変が判明することもあります。認知症やパーキンソン病など、早期の発見・治療が有効な病氣の場合もあるため、感覚の問題だと軽視せず、専門医に診断してもらいましょう。
 人の嗅覚は個人差が大きく、しかも保守的です。成長してから出会った未知のにおいは嫌うことが多く、現代の若者にヒノキのにおいをかいでもらうと、ほぼ全員が「くさい」と表現します。人の体臭も、例えば高齢者のにおいに否定的なのは、身近に高齢者がいない環境で育った人に顕著です。

 加えて日本には、伝統的に無臭を好む文化があります。しかし「においを消す」ことをうたっている商品は、実はにおいを消しているのではなく、化学物質で人の嗅覚を鈍らせているに過ぎません。また強い殺菌効果を持つ、人体に有害な物質が含まれているものもあることを知っておきましょう。

 部屋も人も香料を漂わせたり、無臭を保ったりした中で育ち、花畑のにおいや海辺のにおいを知らずに育った人は、作られたにおいに魅かれるようになるでしょう。味も作物が本来持つ味わいより、人工的な味の方を選ぶようになるでしょう。子どものうちに自然に触れ、色々な人々に接し、多彩な物を食べてみて、感覚の幅を広げることが大切です。またにおいに限らず、ご自分の感覚を手がかりに調べたり考えたりすることを、楽しんでいただければと思います。

(取材=2018年5月14日/東北大学川内キャンパス 文学研究科研究棟6階 心理学研究準備室にて)

研究者プロフィール

東北大学 大学院文学研究科・文学部 教授
専門=心理学
坂井 信之 先生

《プロフィール》(さかい・のぶゆき)1969年九州生まれ。大阪大学人間科学部卒業。同大学院人間科学研究科博士後期課程修了。博士(人間科学)。日本学術振興会研究員、科学技術振興事業団研究員、神戸松蔭女子学院大学・大学院准教授を経て、2011年に東北大学大学院に着任し准教授。2017年より現職。 著書に『香りや見た目で脳を勘違いさせる 毎日が楽しくなる応用心理学』など。

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