研究者インタビュー

仙台藩への評価は低すぎる

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江戸時代の東北の武士に関心

 オーストラリアの出身です。日本とオーストラリアは互いに重要な貿易相手国で、私が大学に入ったのは、日本がまだ高度経済成長を続けていた1971年。私は大学で日本語を学び、経済学部とアジア研究学部の両方で学位を取ろうと考えていました。しかし残念ながら数値に弱かった(笑)。経済学部は断念し、結果として日本史の道に進むことになったのです。

 1974年に東北大学文学部の国史研究室に入って以来、米国の大学で4年間教えた以外はずっと日本に住んでいますから、あわせて40年になります。日本語で書いた博士論文は、『近世日本知行制(ちぎょう)の研究』という本になりました。2001年に発行された『仙台市史 通史編3・近世1』の中の、「農村と武士」という項目約30ページは私が書いています。

 私は直接古文書(こもんじょ)を読みます。3年前に出した『仙台藩「留主居(るすい)」役の世界』という本の元になった研究は、江戸時代に書かれた帳簿が出発点でした。襖の裏張りにされていて保存状態が良くなかった上、これがひどい悪筆で(笑)。解読に苦労していた7年前、自宅のある多賀城市内で東日本大震災に遭遇し、あやうく津波に襲われるところでした。

 私の主な研究対象は江戸時代の仙台藩と南部藩、今の宮城県と岩手県の武士の生活です。日本史の舞台というと、奈良・京都を含む畿内や、江戸・東京のある関東がまず思い浮かぶと思います。ところが東北地方の歴史を詳しく調べると、日本近世史の常識とされてきたことのいくつかが、あまりにも一面的であることが分かったのです。

 仙台藩や南部藩が特別だったわけではありません。むしろかつて研究対象に選ばれていた地域が限定的だったために、日本全体の封建制度のあり方を正しく捉えられていなかったのです。また、東北の諸藩は維新期に奥羽越列藩同盟を結んで戊辰戦争を戦い、新政府軍に敗れました。官軍側に賊軍とおとしめられ、「開明的」な西の雄藩に対して「後進的」と決めつけられたことから、研究対象として避けられていたのかもしれません。

 今回のテーマは「明治150年」ですが、私は江戸時代が専門で明治維新の研究者ではありません。だからこれは単なる感想として聞いてください。私は仙台藩の幕末維新期の評価は、不当に低すぎると思います。他藩と比べても人物がいないとか、藩の政治や経済の仕組みが戦国時代のままで時代に遅れたとか、領内に家臣たちが割拠していてまとまりが無いとか、主に官軍側の記録に基づいた認識が定着しています。

 しかし仙台藩が生んだ林子平、高野長英、工藤平助、玉蟲左太夫らは間違いなく一流の人物でした。政治・経済の仕組みについては、仙台藩が戦国時代以来の「地方(じかた)知行制」を幕末まで維持し、江戸時代に広がった「蔵米(くらまい)知行制」をほぼ採らなかったことは事実です。しかしこれには合理的な理由がありましたし、仙台藩だけが特殊だったわけではありません。これが私の研究テーマの一つです。

仙台藩は特殊ではなかった

interview40_non02-02 封建制度とは一言で言えば「土地を仲立ちにした支配関係」のことで、日本の江戸時代だけでなく、中国古代や中世ヨーロッパでも行われました。しかし政治や経済や社会の仕組みはそれぞれ異なりますし、封建制度という言葉も、国全体の体制を表す広い意味から、特定の主従関係を表す狭い意味まで様々です。

 近世の日本では、当初は「地方知行制」が一般的でした。しかし17世紀の後半からは多くの藩で、年貢高にあたる米を支給する「蔵米知行制」が採用されます。「江戸時代の武士は支配地を持たないサラリーマンだった」というイメージがあるのはこのためです。

 しかし封建制度は経済体制であると同時に、武士たちの軍事体制でもあります。戦国期、伊達家は早くから、自らが軍事動員できる人員と、家臣が動員できる人員を身分的に分けていました。仙台藩が軍事動員できる人数が、領内の人口に比して多かったのは、地方知行制の維持によって、家臣が知行地にたくさんの武士を抱えていたからです。

 仙台藩の武士身分の人口比は江戸中期でも2割を越え、全国平均の3倍から4倍に上っていました。その3分の2は伊達家ではなく家臣が抱えていましたから、仙台藩では農村に武士がたくさんいるのが当たり前だったのです。

 私が日本で研究を始めたころは、「地方知行制は江戸期を通じて形骸化した」というのが定説でした。しかし実は「地方知行制は仙台藩に限らず広く存続していた」のです。18世紀終盤の記録では、地方知行制を残す大名の数は1割代半ばですが、所領規模では日本の大半を覆っていました。すっかり江戸時代の話になってしまいましたね。詳しいことは、図書館で私の本を読んでいただければと思います。

東北とオーストラリアの共通性

interview40_non02-03 私はオーストラリアの大学に在学中、2カ月間日本に来たことがあります。主な目的は日本語力の向上で、埼玉県内にホームステイをしながら、主に奈良・京都、四国、九州を回りました。滞在中はとにかく楽しくて、すっかり「日本に来たい病」にかかってしまったのです。

 大学の成績は悪くなかったので、日本の国費留学生に選ばれました。当時、留学先について希望どおり認められるのが普通でした。私はへそ曲りなので、首都の東京や「ニッポン大好き外国人」が集まる京都には住みたくなかった(笑)。暑すぎるのも寒すぎるのもイヤだし…と、未知だった仙台の東北大学を選んだのです。

 もちろん研究のことも考えましたよ(笑)。オーストラリアで読んだ日本史の本には、東北地方のことはほとんど書かれていませんでした。近世は「伊達騒動」だけ。明治維新も西の雄藩の話ばかりで、東北は戊辰戦争で負けたというだけの記述です。そこで「金沢や仙台など東の大藩は何をやっていたのか」「これは歴史研究の穴場かもしれない」と(笑)。

 私が初めて仙台に来たのは1974年です。当時の人口は60万人ほど。街には市電が走っていて、東北自動車道はまだ通っていませんでした。住んでみたら本当に良いところで、東北大学で学部から博士課程まで10年間暮らしました。1978年の宮城県沖地震も経験しています。米国の大学に4年間勤めた後、1989年、仙台に大学教員として戻ってくることができました。

 実は最初仙台に来た時は、「なぜ東北の人たちはこんなに自分たちに自信がないのだろう」と不思議でした。何かというと東京と比べ、経済力でかなわないとか、文化的に遅れているとか言って嘆く。「もっと誇りを持っても良いのでは」と思いましたが、東北の歴史を学ぶうちに、「これはオーストラリアと似ている」と思うようになりました。

 1901年に建国されたオーストラリアは、かつては英国の植民地でした。元々先住民が暮らしていましたが、18世紀にヨーロッパ人の入植が始まった時、その多くは流刑者だったのです。建国後もヨーロッパ的な視線からは、先住民や「流刑者の子孫」に対する差別的な意識が消え去ることはありませんでした。そのためオーストラリア人は、自分たちの歴史やアイデンティティーについて考えたり語ったりする時、単純な誇りを持つことをためらうのです。同じように東北の人たちは、戊辰戦争に敗れ、経済的に遅れをとり、田舎だと笑われるうちに、持っていいはずの自信まで手放してしまったのかもしれません。

 でも、1970年代にお話を聞いた高齢者の方々には氣概がありましたね。私がお会いしたのは主に伊達藩士の子孫たちでしたが、「俺たちは官軍にすり寄らなかった」と、まるで自分のことのように(笑)力説していました。私も西の雄藩が抵抗を受けることなく日本を統一していたら、もっと独裁に走っていただろうと思います。国民国家や立憲制を目指させたという意味で、戊辰戦争は決して無駄な戦いではなかったのです。

 東日本大震災では大きな被害があった一方で、地震や津波がきっかけとなって、旧家の蔵などに眠っていた多くの貴重な史料の存在が明らかになりました。これからもそうした史料の解読と分析を進め、仙台藩や江戸時代の、武士社会の解明に取り組みたいと思っています。

(取材=2018年2月27日/多賀城市内のご自宅にて)

研究者プロフィール

宮城学院女子大学 学芸学部 教授
専門=日本近世史
J.F.モリス 先生

(John Francis MORRIS)1952年オーストラリア生まれ。オーストラリア国立大学アジア研究学部卒業。東北大学文学部学部研究生。東北大学大学院 文学研究科 博士前期課程。同後期課程。文学博士。コルゲート大学(米国)、コロンビア大学(米国)で講師・助教授、宮城学院女子短期大学で助教授・教授を務め、2000年より現職。著書に『近世日本知行制の研究』、『近世武士の「公」と「私」 仙台藩士玉蟲十蔵のキャリアと挫折』、『仙台藩「留主居」役の世界 武士社会を支える裏方たち』など。

    

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