研究者インタビュー

維新が宮城の農村を変えた

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明治維新で農村も近代化した

 カナダの出身です。近代国家としての日本が明治元年(1868年)に始まったとすると、今年は「150周年」ですね。英国の植民地だったカナダが、自治領として独立したのが1867年。去年が「建国150周年」でした。明治時代には多くの日本人が移民としてカナダに渡りましたし、現在も日本とカナダは、経済面をはじめとして強く結びついています。

 しかし私はそうした国同士の結びつきから、日本史の研究者になったわけではありません。「大学の先生になろう」と志したのは20歳代の後半ですが、日本近代史を選択したのは、もともと近代史に興味があり、働きながら休暇を楽しむワーキングホリデーで仙台に1年間住んだことがあったからです。そして3年前、東北大学が国際交流室の外国人教員を募集したのに応じて、准教授として着任しました。

 日本史の時代区分では、安土桃山時代と江戸時代を「近世」、明治維新から第二次世界大戦までを「近代」、それ以降を「現代」と呼ぶのが一般的です。時代の変わり目には、政治や経済などのあらゆる制度や価値観が大きく変化します。江戸時代の制度・価値観は明治維新によって全て否定され、明治以来の制度・価値観は1945年の敗戦によってすっかり改革されたと思われがちですが、実は維持されたものも少なくありません。一方で本質的な変化が見逃され、時代の変革に大きな役割を果たした人々や事業が、過小評価されてしまう場合もあります。

 私は宮城の農村や農民の歴史を調べるうちに、まさにこの問題に氣がつきました。近代化というと農業ではなく工業、農村ではなく都市を思い浮かべる人が多いでしょう。むしろ農村や農民は「前近代」を象徴する、「遅れたもの」「取り残されたもの」と考えられがちです。日本の場合は第二次大戦後、地主の土地を耕していた「小作農」が、連合国軍の占領政策によって農地を買い入れ「自作農」になった農地改革の印象が強いこともあって、明治維新による農村の変化には十分目が向けられてきませんでした。

 しかし私は、たとえば宮城の鎌田三之助(かまたさんのすけ)らが進めた品井(しない)沼の干拓事業などの調査を通じて、農業や農村も近代化して歴史的に重要な意義を担ったこと、農民が日本社会の近代化に受け身的に関わっただけでなく、積極的にその形成過程に参加したことを知りました。鎌田ら農村の中心人物たちは、維新の英雄たちのようには近代化を進めなかったかもしれません。でも、そもそも近代の本質とは何でしょうか。江戸時代に日本の人口の8割以上を占めていた農民や、生産力の基盤だった農業を無視して、日本の近代化を正しく捉えることはできるのでしょうか。

宮城には「近代性の媒介者」がいた

interview40_no01-02 宮城県にかつてあった品井沼は、たびたび洪水を起こして地域を苦しめていました。排水路を築くなどして農地に変えようとする試みは、300年以上前の江戸時代から始まっています。しかし工事は困難で、治水・干拓しては再び洪水を起こすということを繰り返してきました。

 明治元年の5年前、1863年に地元の大地主の家に生まれた鎌田三之助は、30歳代で宮城県会議員と衆院議員になり、1909年(明治42年)に当時の鹿島台村長に就任します。その後38年間も無報酬で村長を務め、村の財政の建て直しに取り組みました。鎌田は品井沼の干拓でもトンネル排水工事を指揮し、農地が広がる現在の姿の基礎を作ったのです。

 明治維新を説明する教科書や事典には、制度改革のキーワードが次々と出てきます。土地や農業に注目すれば、大名が土地と人民を朝廷に返した1869年の「版籍奉還」から、中央集権化を進めた1871年の「廃藩置県」、そして土地の私的所有を認め、税を米ではなく地価の3パーセントの金納に変えた1873年の「地租改正」へと進みました。

 一揆が起こって地租率が2.5パーセントに下げられるなど、農民と政府の間には緊張関係もありました。しかしそれまで大名のものだった土地の私有と売買が認められ、交通の発達や移動の自由によって農民同士の交流や技術情報の交換が進むと、家と地域の利益を追求する熱氣が農村に広がり、農業の生産力は向上したのです。鎌田のように、大地主として命令するのではなく、村の代表として政府と農民の間に立ち、中央から情報と資金を獲得してきたり、住民への説明と説得を尽くそうとしたりする指導者も各地に生まれました。

 明治維新では、農業や農村も間違いなく近代化しました。そして農民たちは地域の代表者を媒介として、積極的に近代化に関与したのです。鎌田らは、きわめて優れた「The Middlemen of Modernity(近代性の媒介者)」でした。こうした状況は1880年代、大蔵卿・松方正義による「松方デフレ」と呼ばれる財政政策によって、多くの自作農が小作農や賃金労働者へと変わってしまうまで続きます。

 機械化による生産力の向上や、民主的な政治制度をはじめ、近代は多くの価値を実現したかもしれません。かつては「人類は歴史の到達点に至った」と考える人たちさえいました。しかし技術の急速な進歩で起こる仕事や生活の激変に苦しむ人がいたり、国境を越えて移動する資本が経済格差をさらに広げたりするなど、近代以前にはなかった問題も深刻です。今の私の目標は、歴史的な事実に基づいて「近代」について考え直し、その新たな理念を打ち立てることです。

漫画「ドラゴンボール」で日本語を学ぶ

interview40_no01-03 私は大学に3回入っています。最初に入った大学では英文学を学んだのですが、途中で目標を見失って退学してしまいました。その後はアルバイトを転々。

 「このままではいけない」と思っていた時、友人が「ワーキングホリデーで日本に行く」と言うのを聞いて、私もチャレンジすることにしました。日本に関心があったわけでも、日本語を学んでいたわけでもないのに来てしまったのです。仙台を選んだのも、たまたま英会話の先生の募集を見つけたからに過ぎません。

 仙台では言葉が通じないことの大変さに驚き、日本人がよく魚を食べることに驚き、地震の多さに驚きました。しかし神社や城などの古い建物は魅力的で、都市の規模も私にはちょうど良かった。妻となる日本人女性にも出会えて、私は日本というよりも仙台が大好きになってしまったのです。

 日本語は、主に子ども向けの漫画で学びました。ひらがなさえ覚えれば、漢字に振り仮名がついているからです。鳥山明さんの『ドラゴンボール』は、特に氣に入りました。

 期限の1年が過ぎて、私は妻とカナダに戻りました。またアルバイト生活が始まりましたが、もっと安定した良い仕事に就こうと、再び大学に入り直します。そこで受けた歴史の授業が面白く、「大学の歴史の先生がいいかも」と思うようになりました。自分の強みと言えば、1年間の仙台生活と漫画と妻に学んだ日本語だけです。日常会話なら半分くらいできるというレベルでしたが、思い切って日本史の研究で有名なブリティッシュコロンビア大学に入り直しました。

 本格的に日本語を読むことから学び始めましたが、今度は卒業まで頑張りました。さらに修士課程、米国の大学の博士課程へ進み、研究者として仙台に戻ってくることができたのです。

 実は10年近くに及んだ米国での博士課程の間も、調査研究のために約2年間、仙台で暮らしています。2011年3月の東日本大震災の時も仙台にいましたが、住んでいた古いアパートが壊れなかったのは幸運でした。

 震災を経験したことから、私の研究テーマには「地震の歴史」が加わりました。今年の3月にはベルギーで、1933年(昭和8年)の「昭和三陸地震」について学会発表を行っています。

 昨年は韓国で、東北地方から満州へ渡った人々について報告し、日本語で論文も書きました。現在の所属は国際交流室ですが、2019年度からは日本学研究室が開設され、私はそこに移って研究を続ける予定です。宮城の皆さん、これからもよろしくお願いいたします。

(取材=2018年2月26日/東北大学川内キャンパス 文学研究科研究棟2階 クレイグ研究室にて)

研究者プロフィール

東北大学大学院 文学研究科 准教授
専門=日本近代史
クレイグ・クリストファー 先生

(CRAIG Christopher Robin Jamie)1975年カナダ生まれ。ブリティッシュコロンビア大学(カナダ)歴史学部卒業。同大学院歴史学修士課程修了。コロンビア大学大学院(米国)歴史学博士課程修了。博士(歴史)。同課程在籍中にコンコルディア大学(カナダ)、ブリティッシュコロンビア大学で講師を務め、2015年より現職。著書に『わたしの日本(ニッポン)学び』(共著)など。

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