編集部だより

教えることはムズカシイ

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 現在、大学院で勉強していますが、昨年の12月から今年の1月までの約2ヶ月間、留学生を対象とした漢文講読の授業を担当することになりました。普段は学生として講義を受けているので、教えることは初めての経験でした。
 漢文講読の授業は、漢文を書き下して意味を理解することを目的としています。簡単にいえば、漢文を日本語として読むための技術の習得が到達目標です。初学者向けの入門としての授業なので、実際に授業が始まる前は漢文を教えるといっても、自分が中学校・高校と学んできたことを単純にアウトプットすれば十分だろうとタカを括っていました。しかし、現実はそれほど甘くはありませんでした。
 受講者のうち、中国からの留学生が多くいました。彼ら、彼女らにとっては漢文を書き下して読むことは、あえて不自然な操作を加えて文章を読むことのようでした。というのも、日本の中学校・高校で漢文の授業を受けた経験があれば、「以五十歩笑百歩」(『孟子』梁恵王上篇)は「五十歩を以って百歩を笑う」と書き下します。これは返り点(レ点)を意識して書き下すためです。一方、同じ文章を中国語として読む場合、返り点という操作は不要なものとなります。返り点を用いてどのように書き下すのかという技術的な問題ではなく、なぜ返り点が必要となるのかという、返り点を使用する背景を説明する必要があります。
 最も不自然な操作として驚かれたのは、再読文字を含んだ文章でした。再読文字とは「未」や「将」、「宜」などを指します。例えば、「惟仁者宜在高位」という文章は、「惟だ仁者は宜しく高位に在るべし(ただ徳の優れた者だけが高い地位につくのがよい)」と書き下します。「宜」という文字は二度読みます。当然のことながら中国語ではこのような複雑な操作をすることなく、素直に同じ文章を読むことができます。昔の日本ではなぜ一つの文字を二度も読むという不自然な操作を行い漢文を読んでいたのか。このような問いは中国語を母語とする人だけではなく、日本語を母語とする人にとっても同様に抱かれるものであると思いますが、中学校・高校で漢文を勉強した経験を振り返ると、再読の不思議など考えもせずに一つの文字を当然のこととして再読してきたのではなないでしょうか。
 教えるという体験から大きな氣づきを得ることができました。自分が当たり前のように考えていたことも、視点を変えればそれが決して当たり前ではないというものです。漢文の書き下しだけではなく、様々な場面に似たようなことがあるのかもしれません。

「まなびのめ」編集部 佐々木隼相

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