研究者インタビュー

漁師の生活文化から防災・減災へ

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東北大学 災害科学国際研究所 教授
専門=民俗学
川島 秀一 先生

気仙沼市に勤めながら民俗学を研究

 2011年の震災当時、私は気仙沼市のリアス・アーク美術館に勤めていました。職場は高台でしたが、海の近くにあった自宅は津波で流され、母を亡くしました。

 私は生まれも育ちも気仙沼です。小学校2年生だった1960年には、チリ地震津波で自宅が浸水しました。その後、建て替えられ、暮らしていた実家が被災したため、私は生涯に2度家が津波に襲われたことになります。1度目は家族が無事でしたが、今回は母が亡くなり、それまでの研究資料も失いました。

 高校卒業後は東京に出て、大学で社会学を学びました。研究対象の土地を訪ね、人々の話を聞くなどの調査を重ねるうちに、同じくフィールドワークを行う民俗学にも関心を持ち始めます。在学中の1975年が、民俗学の創始者とも言うべき柳田国男の生誕百年にあたっていたこともあり、社会的にも民俗学への注目が高まっていました。

 卒業論文では、日本に返還されて間もなかった沖縄の離島を取り上げようと、友人と2人でテントと米を背負い、大阪から船で向かいました。波照間島などに1カ月ほど滞在し、お寺も神社もないことに驚く一方、気仙沼にもいた巫女(ふじょ)が、神と人々、あの世とこの世を結んできたことを知ります。調査を進めるうちに、数値化して考察する手法の社会学よりも、人々が何を考えて生きているのかという、もっと人の心をすくい上げられるような研究をしたいと思うようになりました。

 結局、卒論は柳田国男の研究で書き、民俗学の研究者を志します。やがて、司書の資格を得て東北大学の附属図書館で働くことになりました。職場で古文書の読み方を学び、「東北民俗の会」に入会してフィールドワークを行うなど、充実した3年3カ月でした。気仙沼市が市史を刊行することになり、その編纂に携わるために帰郷したのは1980年の夏です。18年をかけて全9巻10冊を完成させた後も、市の職員として勤務しながら民俗学の研究を続け、2010年に「追い込み漁」の研究論文で博士号を取得しました。

防災・減災に結びつく民間伝承

 民俗学は「野(の)の学問」とも呼ばれています。社会学や歴史学などと重なる部分もありますが、文献だけでなく、実際に使用された物の調査や聞き書きなどを通して、一般の人々の生活文化・精神文化を研究します。

 業績を残した個人の名や大事件が連なる「歴史」に対して、「民俗」は無名の人々が日常で営み、伝えてきたものが対象です。民間の伝承・風俗・信仰などは、たとえ現在の価値観から見て非合理的であっても、その土地や時代に生きた人々にとってかけがえのない価値を持っています。一方、当たり前すぎて文字で記録されなかったり、物が保存されていなかったりすることも少なくありません。

鹿児島県喜界島の漁師さんたちからの聞き書き調査(2008.5)

 主に私は漁業に携わる人々の仕事や、共同体との関わりを記録・考察してきました。聞き書きした内容には、記憶違いや伝聞も含まれます。相互に内容を突き合わせたり、文献等の資料と照らし合わせたりして事実に迫る必要はもちろんありますが、その人やその地域にとって何が大切で何が正しいのかを、内側から理解することも必要なのです。

 「職業」と比べると、「なりわい」とも読む「生業」という言葉は、生活や家族や地域に密着した意味合いを持っています。漁を生業とする人、その家族、地域は、浜ごとに独自の文化を育んできました。海という、人間のコントロールが効かない自然を相手にする仕事では、大漁に沸き、不漁に泣き、時に命がけの決断を迫られます。漁業者は「海で」生活するのではなく、「海と」生活しているのです。

 震災では、津波の襲来を知った漁師たちが、沖に出すことで船の損壊を防ごうとする「沖出し」が多く行われました。成功した例もありますが、命を失ったり、船は助かっても自宅が損壊し、家族が津波の被害に遭ったりした人も少なくありません。

 2日前の3月9日にも三陸沖を震源とする地震が発生し、岩手と宮城で津波が観測されていました。女川の出島(いずしま)の漁師はその夜、家族会議を開いて「次の地震では家や港には近づかず、避難所に逃げる」と確認していたそうです。ところが11日に地震が起きると、とっさに「沖出し」しようと海に向かっていました。伝統的な仕事の知識・技術や、地域の芸能・神事は、頭よりも「体で」覚えております。生業を成り立たせ、自分と家族と地域を生かしてくれている船を救おうとする行動を、単に無謀だと責めることはできません。

 災害科学国際研究所で私がいるのは、「人間・社会対応研究部門」の「災害文化研究分野」という研究室です。「災害文化」という言葉は一般的ではありませんが、私はこれを「人間と自然の付き合い方」と広く捉え、主に各地で自然を相手にしている生業者の災害伝承を収集しています。災害時と災害後だけでなく、災害前の日常的な生活文化・精神文化を深く知ることで、防災・減災に結びつけたいと考えています。

 災害の記憶を継承し、教訓を伝える形は地域によって様々です。子どもたちが参加する年中行事や慣習の中に、明示されないながら組み入れられることもあります。また記念碑に比べて供養碑は、毎年の儀式で死者に供物を捧げるなどして意識し直されることで、より長く確かに災害を後世に伝えてきました。たとえ非合理的・非効率的に見えても、こうした形での伝承は防災・減災に大きな役割を果たしているのです。

被災者に風化はあり得ない

 震災時に私が勤務していたリアス・アーク美術館は、気仙沼だけでなく南三陸町も含む宮城県沿岸北部の、芸術・文化・民俗を調査・研究・展示する施設です。あの日、気仙沼の市街地は瓦礫の山に、湾全体は火の海になって大変危険でした。翌日ようやく帰宅すると、家は門と土台しかありません。母の行方は分かりませんでした。

 震災から1年後の春、私は神奈川大学の日本常民文化研究所に赴任しましたが、気仙沼を離れることにはためらいもありました。ところが新たな住居を契約しようと不動産会社の事務所にいたその時、私に宮城県警から、母の遺体を確認したという電話が入ったのです。驚くとともに、母に背中を押してもらった氣持ちになりました。

 ところがさらに1年後、今度は東北大学からお誘いをいただきます。また大いに迷いましたが、民俗学的なアプローチで被災地の災害文化を研究することは自分の務めであろうと考え、移籍を決断しました。今は、独学のかたちで民俗学を研究し続けてきて良かったと思っています。2013年の秋、研究所は気仙沼にサテライトオフィスを開設しました。年に数回「防災文化講演会」を開いていますが、研究者が一方的に講演するのではなく、地域の方々と相互に知見を交換する場にしています。

 行政は海が見えないほど高い堤防を造り、土地をかさ上げし、高台に宅地を造成する「近代防災」「近代復興」を急ぎます。しかしこれら全てを行う必要があるのでしょうか。かつて暮らした人々は、その土地にまた戻ってきて、生業を頑張ろうと思うでしょうか。私は被災者の話に耳を傾け、災害前の暮らしをどう取り戻すかという観点で復興を考える必要が、もっとあると思うのです。

 また防災上、最新の機器で素早く情報を伝え、避難を促すことは有効でしょう。しかし便利さに慣れた私たちは、とっさに身を守れる場所を見つけ、そこに駆け込むような感覚の鋭さや、判断力・行動力を失ってしまってはいないでしょうか。

 私はこの春に定年を迎えますが、民俗学を学び続けるつもりです。皆さんも自分の過去を振り返って記録したり調べたりする学びをしてみてはいかがでしょう。災害などの大きな出来事だけでなく、昔食べた生卵や納豆のおいしさについて思い出すことからでも、立派な研究につながります。

 間もなく震災から7年となり、あちこちから風化を懸念する声が聞こえてきます。しかし、私を含め被災者に風化はあり得ません。節目にあたっては、忘れたくても忘れられずにいる人々の存在にも、思いを寄せていただければ幸いです。

(取材=2017年11月29日/東北大学青葉山キャンパス災害科学国際研究所棟5階 災害文化研究分野研究室にて)

研究者プロフィール

東北大学 災害科学国際研究所 教授
専門=民俗学
川島 秀一 先生

《プロフィール》(かわしま・しゅういち)1952年宮城県生まれ。法政大学社会学部卒業。博士(文学)。東北大学附属図書館、気仙沼市に勤務。宮城教育大学非常勤講師、神奈川大学特任教授を経て、2013年より現職。気仙沼市では市史編纂室、図書館、リアス・アーク美術館に勤務し、同副館長を務めた。著書に『海と生きる作法―漁師から学ぶ災害観』『安さんのカツオ漁』『津波のまちに生きて』『魚を狩る民俗―海を生きる技』『追込漁』『カツオ漁』『漁撈伝承』など。

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