研究者インタビュー

夏目漱石の学びに学ぶ

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漱石の蔵書や日記が仙台にある理由

 今年は夏目漱石の没後100年にあたり、その作品があらためて注目されています。初めての小説「吾輩は猫である」の発表が38歳の時で、49歳で亡くなりましたから、作家として活動したのはわずか10年ほどです。40歳で朝日新聞社に入社してからは文筆中心の生活になりますが、それまでは主に東京帝国大学で英文学の研究と教育に携わっていました。

 その教え子などの若者たちが、漱石を慕って家(漱石山房)に集まります。のちのドイツ文学者・文芸評論家の小宮豊隆や小説家・児童文学者の鈴木三重吉らが、「木曜会」と呼ばれるその集まりの中心メンバーでした。

 中でも漱石の17歳年下で、一番弟子とも言われた小宮は、漱石の没後、最初の漱石全集を編集し、詳細な伝記を著すなどして業績の顕彰を行いますが、1924年(大正13)からは東北帝国大学の教授(ドイツ文学)に就任していました。小宮は、同じく漱石門下で東北帝大教授(美学)の阿部次郎とともに、漱石関係資料の保存のために、自らが館長を務めていた東北帝大附属図書館に蔵書等を移す計画を立てます。それが実現したのは1943年(昭和18)のことでした。こうして貴重な資料は戦災を免れることができたわけです。受け入れは1950年(昭和25)に完了し、「漱石文庫」が開設されることになりました。劣化を防ぐため、資料は現在貴重書庫に収められていますが、今年が漱石没後100年にあたることから、10月3日から11月11日まで附属図書館で企画展が開催され、特別に蔵書・日記・ノート・原稿などが展示される予定です。

 存命中の漱石と仙台・宮城との縁としては、1894年(明治27)に松島を訪れたことが挙げられます。その折、仙台出身の土井晩翠が対面しています。その後、漱石は東京帝大の後輩となる晩翠と交流を持つことになります。漱石留学中の1902年(明治35)、ヨーロッパを巡歴していた晩翠がロンドンに漱石を訪ね、10日ほど同宿したりもしています。企画展では漱石が晩翠に送った、自画像を描いたはがきも展示される予定です。

漱石は英国で哲学や心理学にも挑んだ

 今も読み継がれている漱石の小説が、魅力的であることは言うまでもありません。しかし「文豪」のイメージは、国語の教科書で取り上げられていることや、作品を手にしやすい環境が整っていることによって作られているものでもあるでしょう。没後100年を機に、漱石文学をあらためて読み直してみてはいかがでしょうか。小説だけでなく日記や書簡、さらには蔵書への書き込みなどを読むと、漱石とその作品について、より深く知ったり考えたりするきっかけがつかめると思います。

 私はこれまで漱石を含む日本の近代文学について、とくに日本文学を他の国の文学との関係をとおして考察する比較文学的な観点で研究を行ってきました。こうして文学に関してあれこれ考えてくる中で、漱石文学は未だ十分に理解されているとは言えないのではないかとも思われます。

 まずは漱石の、小説家以外の面です。東京帝大の英文科を卒業した漱石は、教員生活の後、国費留学生としてロンドンに旅立ちます。文部省の派遣の目的は英語を学ばせることでした。しかし英文学の研究を志していた漱石は、学校にはほとんど通わず、現地で買い集めた本を読んで日々を過ごしたのです。

 このとき漱石が志したのは、単にイギリスで英文学を学ぶということだけではありませんでした。東洋文学の素養を持ち、正岡子規という同い年の優れた文学者とも親しかった漱石は、東洋と西洋の文学双方を視野に入れながら、「文学とは何か」という根底的な問題に取り組んだのです。そしてそのため、文学に限らず哲学、心理学、社会学など多分野にわたって様々の書物を熟読しました。「漱石文庫」に残された蔵書のアンダーラインや書き込みを見ると、漱石がいかに熱心に学び、深く理解しようとしたかが分かります。

 帰国した漱石は東京帝大の英文科で教え始めます。その講義も英国で得た知識を紹介するのではなく、文学の本質について自分で考えたことを語るというものでした。前任者は日本の文化を海外に紹介し、小泉八雲の名でも知られるラフカディオ・ハーンです。文学作品の鑑賞にとりわけ優れていたハーンの講義と比べて理論的な内容の漱石の講義に学生たちは戸惑いますが、次第に好評を得るようになり、後に『文学論』その他の単行本にまとめられることになりました。

 日本が大急ぎで西欧に追いつこうとしていた時代に、漱石は自ら設定した課題について学び、考え抜きました。日本文学を代表する小説を生み出すことができたのも、文学の本質を考える中で創作の問題に行き当たったことからだと言ってよいでしょう。もっとも、日本語による近代小説が成立するにあたっては、漱石以前に坪内逍遥、二葉亭四迷、正岡子規らによる優れた試みがありました。そうした先行する営為の蓄積なしには、漱石の仕事もなかったと言えるでしょう。彼らをはじめとする、明治の知識人たちの教養の水準や幅の広さ、奥行きには本当に驚かされます。

人間の生や内面を注視した漱石文学

 次に漱石の作品の本質についてです。私は漱石の作品は、読者が「物語」として消費してしまうことを拒むところを持っている、と考えています。

 私たちは小説を読んで、面白がったり感動したりしますが、その時、納得できる、了解できる結末に至る「物語」を求めているところがあります。しかし漱石の作品は、そうした読まれ方を拒む性格を備えている。たとえば『門』でも『道草』でも、その終わり方は、「物語がしかるべき終りを迎えた」と私たちを納得させ、安心させるものでは決してありません。言い換えると、漱石文学は、そうした私たちに深く内在している「物語」を揺るがすものとしてあるのではないでしょうか。

 私たちの人生は、「物語」のように出来事のすべてが都合よく決着に至りつくようなものではありません。また私たちの内面、心は、どこにも行き着くことなく、移ろい、変転を重ねていったりする。そうした私たちの生のありようを注視し、確かに描き止めているのが漱石作品の重要な性格の一つであって、決して単に倫理的な正しさなどを語り出しているわけではないと思います。私は、こうした点こそが漱石の小説の本質的な魅力であり、時代を超えて読み継がれている理由だと考えています。

 文学作品は、自分の側に引きつけ、了解可能な範囲で読むのではなく、自分の方から文学作品に可能な限り寄り添い、一つ一つの言葉を丁寧に読みこんでこそ、その本質に触れることができるのです。これは私たちが他者と接し理解する際の態度にも通じます。他者を自分にとって都合のよい理解の枠組みに当てはめて捉えることはできないでしょう。たとえ理解できなくても、その人に寄り添いできるだけ近づこうとすることによってのみ、本当の意味での関係を構築する端緒が開かれるのではないでしょうか。文学作品に接する際にも同じことが言えると思うのです。

 漱石をはじめとする優れた文学作品は、私たちを楽しませたり慰めたりするだけでなく、日常において当たり前のこととして受け入れてしまっている様々なことに問いを投げかけてくれます。そして私たちがそうした文学のメッセージの前で立ち止まり、自分自身の問題として考えることが求められています。そのような読書体験こそが、私たちの視野を広げ、生きることの意味を見出すための糧となってくれるはずです。

 漱石文学を改めて読み直す際の一つの入口として、例えば「永日小品」は、ごく短い「小品」の集成ですが、様々の文学的な試みがなされていますので、文学の多様性に触れるのに良い作品です。参考にしていただければ幸いです。また読書会のような形でお互いの読みを語り合うのも大切なことだと思います。

 文学には唯一の「正しい読み方」というものはありません。一人の読者としてテキストに可能な限り寄り添い、幾度も立ち止まり、テキストと対話を重ねながら、自分自身の読みを作っていくことが何よりも大事だと思います。漱石がそうしたように、自ら足を踏み出し考えることを大切にして、充実した学びを続けていただければと願っています。

(取材=2016年8月18日/東北大学川内キャンパス 文学研究科研究棟8階 佐藤伸宏研究室にて)

研究者プロフィール

東北大学大学院文学研究科・文学部 教授
専門=国文学・比較文学
佐藤 伸宏 先生

(さとう・のぶひろ)1954年宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程退学。ノートルダム清心女子大学文学部助教授、宮城学院女子大学学芸学部助教授、東北大学文学部附属日本文化研究施設助教授を経て、1998年より現職。博士(文学)。著書に『日本近代象徴詩の研究』、『詩の在りか』など。

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