研究者インタビュー

科学技術を「専門家任せ」にしない豊かな生き方を

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「健康」の捉え方も自らが決める

 現代人にとって重要な関心事である健康の問題も科学技術の発達と無関係ではありません。現在では健康情報があふれ、かえってそれに振り回されているようにも見えます。なぜそうなるのでしょうか。「健康は重要」といいながら、私たちには自分の健康観といえるほどのものはないようです。あるとしても、社会の側、つまりマスコミや雑誌、さらには医学・医療界、医療関連産業、健康産業などからの情報の影響をかなり受けています。また、あまり意識されませんが、これらの情報は、国が与える政策の推移と無関係ではありません。健康は個人の問題ですが、実は社会の問題でもあるのです。

 明治時代以来、国は近代産業社会を進展させるために、健康な労働者を多数必要とし、そのための政策を打ってきました。1950年代からは、国民健康保険法の成立、成人病予防、早期発見・早期治療、70年代以降は、健康の保持・増進、国民健康づくり対策、生活習慣の改善と続き、2000年に入ってからは、国民健康づくり運動「健康日本21」などがテーマでした。健康の追求は、病氣の克服や衛生環境の改善から予防の観点による生活習慣の規制にまで進み、さらには生活全般の管理化へと拡大しかねない状況です。

 こうした動向の背後にはどのような健康観があるのでしょうか。それはWHO(世界保健機関)の「健康とは身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態であり、単に病氣や障害がないということではない」という定義によく現れています。これは、正常とされる健康を得るためには、異常とされる病氣や障害を取り除くだけでなく、さらにより良好な状態を目指す必要がある、と読めます。常識的におかしくは見えませんが、正常および異常は価値判断ですから、つまり正常や異常とされるものが物体のように存在しているのではなく、ある状態や状況をそう名づけているだけのことですから、誰がどういう基準で判断するのかが問題になります。しかし、そこがあいまいなまま、「正常は異常でないこと」とし、正常を得るために異常なものをひたすら排除していく方向が目指されてきました。

 こうして国は、国民に健康を意識した新たな行動を促し続け、産業化された医学・医療は新しい知識や検査技術を用いて新たな異常を病氣と認定し、その撲滅に向かい続けています。最近では、病氣予防どころか老化防止や能力増強までもが、遺伝子検査や遺伝子治療との関連で語られ始めています。健康の水準が際限なく高く再設定されていくような状況では、国民はどこまで健康を求めればよいのかわからず不安になります。

 不安から逃れるにはどうすればよいのでしょうか。一つには健康という価値をどう捉えるかです。健康はそれ自体が目的なのか、それとも人生上の他の価値を実現するための手段なのか。健康長寿に意味を見出す生き方もありますが、健康や命を犠牲にしてもやり遂げたいことをするという生き方もあります。とすれば、病氣や障害があっても、価値実現に支障がなければ全体として健康といえます。まずは健康問題を人任せにせず、自分の人生との関係で健康の基準を決めてみてはどうでしょうか。

 常識とされることを疑ってみるというのが哲学に限らず、学問の出発点であり楽しみでもあります。人文社会系の学問には、自然科学系の学問を批判する機能があるので、理系のテーマと思われるものについても人文社会系から、あるいは学際的にアプローチしたものに目を向けていただければ、大学の教員としてはうれしいですね。

 (撮影=2010年6月9日/東北薬科大学哲学教室にて)

研究者プロフィール

東北薬科大学哲学教室教授 哲学

渡辺 義嗣 先生

(わたなべ・よしつぐ)大阪大学文学研究科修了。岩手医科大学を経て1990年より現職。

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