研究者インタビュー

科学技術を「専門家任せ」にしない豊かな生き方を

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東北薬科大学 哲学教室 教授
専攻=哲学
渡辺 義嗣 先生

現代社会にあらわれる科学技術の負の側面

 皆さんが日頃実感しているように、現代社会は科学技術と非常に深く関係しています。私たちは科学技術を利用し、利便性や効率性を追求して豊かな社会の実現を求めてきました。政府も予算に配慮し、産学協同研究を推進してきました。その結果、科学は技術との結びつきを強め、先端技術の応用にますます拍車がかかっています。

 しかし、科学技術の発達には負の側面もあります。周知のように以前では公害、薬害など、近年では遺伝子組換え食品、地球環境問題などがあります。これらは自分とは関係のない特定地域でのことといって済ませられない社会や地球全体の問題ですね。技術やその産物は、後になって広範囲にしかも不可逆的な危害を及ぼすことがわかることも多く、私たちはどこに危険が潜んでいるかわからないものに囲まれた「リスク社会」に生きています。最近の金融危機もそうした例です。しかも厄介なことに、こうしたリスクの原因は科学技術の恩恵を受けている一般市民のライフスタイルにもあり、私たちは被害者というだけでなく、いつのまにか加害者の立場にも立っています。

 科学技術がもたらす負の側面にはどう対応すればよいのでしょうか。常識的には、科学技術者にさまざまな政策策定の判断を任せればよい、と考えられます。彼らはその分野の専門家だからです。しかし、一般に、専門家はもっぱら技術的な観点からリスクを制御しようとする傾向がありますし、とりわけ先端的な問題の場合には専門家同士でも意見が一致しないことがあります。また、専門家も行政担当者も現場や具体的状況を知らないことが多い、という事実も指摘されています。そこで、こうした科学技術の社会的制御にかかわるような大きな問題には、哲学や倫理学に限らず、法学や社会学などさまざまな学問が学際的にかかわらざるをえなくなります。

市民目線での積極的参加を

 政財官の癒着や情報非公開による負の側面が露わになるたびに、市民は科学技術の専門家、さらには官僚や政治家たちに対して不信感を抱きます。政策策定に専門家の判断が必要だとしても、科学技術が本当に国民のためになっているのか疑わしいからです。そこで市民の側は、問題解決を専門家に任せてよいのか、科学技術をどう捉えればよいのか、それを組み込んだ高度産業社会の発達を望むべきなのか、などの疑問を発します。

 こうした問題提起は、科学技術に無知な人たちの感情的な反発と捉えられがちですが、実は、何のための科学技術なのか、を問う重要なものです。つまり、公共の観点から科学技術を検討することを求めているのです。科学技術が加速度的に発達し確定的なことを言いがたい状況では、重大な問題が起こった場合に、従来のように因果関係をきちんと確定してから発言しようとする厳格かつ慎重な立場では、リスクの拡大に対して後手に回ってしまいます。そこで、科学技術にはこれまでと異なる社会的役割が期待され、科学技術者にも社会への影響に対する責任が問われることになり、放任から規制への動きが出てきます。

 これに対し、科学技術者の側は、ガイドラインをつくって科学技術をコントロールしようとしてきました。また、非専門家をメンバーに含む倫理委員会を設け、その審査を通らなければ研究に着手できない体制にすることで、限定的ですが、専門家による支配を外部から監視・制御するようにしています。しかし、こうした規制は学会などによる自主規制であり、違反しても制裁措置がないので、実効性に疑問符がつきます。科学技術者の倫理観に期待するだけで不十分ならば、外部からの強制力を持つ法が必要になります。例えば、遺伝関連ビジネスに関しては、日本にはまだありませんが諸外国にはそれを規制する法があります。

 専門家の権威を信頼してすべてを任せきるのが危険な状況では、市民が科学の公共性を問う場に当事者意識をもって積極的に参加することが重要になります。なぜなら、先端医療技術、遺伝子関連技術、原子力関連技術などは、健康や生命、さらには環境に重大な影響を与えますが、最も深刻な影響を受けるのは私たち一般市民だからです。とすれば、人間のあり方や存続にかかわる倫理問題に専門家と行政担当者が対処するだけで十分なのか、と問うのは当然のことです。皆さんの中には、一般人は科学的・技術的知識がないので発言権がないと思う人がいるかもしれませんが、氣にする必要はないのです。専門家といっても自分の専門以外は素人同然なのですから、専門家とは異なる関心や価値観をもつ者として、彼らが氣づかない視点を提示することが重要なのです。この点では、子供を産み育てる中で危険に敏感な女性の方が生活の実感に基づいて活発な活動をしているようです。ホームページやNPOを立ち上げて、同じ問題を抱える人たち同士で助け合ったり質の高い情報を発信したりして、心強い限りですね。

 そもそも、社会が科学技術に対してどういうスタンスで臨むかは、専門家や官僚が自分たちの都合で一方的に決める問題ではないはずです。これからは一般市民と(ややもすると市民生活から遊離しがちな)科学技術の専門家や行政担当者とが科学技術の公共性について話し合い、合意形成に向けて協働していくべきでしょう。こうした国民による公共政策への意見の反映や策定過程への参加という方策は、生命倫理学の教えでもあるのです。

「健康」の捉え方も自らが決める

 現代人にとって重要な関心事である健康の問題も科学技術の発達と無関係ではありません。現在では健康情報があふれ、かえってそれに振り回されているようにも見えます。なぜそうなるのでしょうか。「健康は重要」といいながら、私たちには自分の健康観といえるほどのものはないようです。あるとしても、社会の側、つまりマスコミや雑誌、さらには医学・医療界、医療関連産業、健康産業などからの情報の影響をかなり受けています。また、あまり意識されませんが、これらの情報は、国が与える政策の推移と無関係ではありません。健康は個人の問題ですが、実は社会の問題でもあるのです。

 明治時代以来、国は近代産業社会を進展させるために、健康な労働者を多数必要とし、そのための政策を打ってきました。1950年代からは、国民健康保険法の成立、成人病予防、早期発見・早期治療、70年代以降は、健康の保持・増進、国民健康づくり対策、生活習慣の改善と続き、2000年に入ってからは、国民健康づくり運動「健康日本21」などがテーマでした。健康の追求は、病氣の克服や衛生環境の改善から予防の観点による生活習慣の規制にまで進み、さらには生活全般の管理化へと拡大しかねない状況です。

 こうした動向の背後にはどのような健康観があるのでしょうか。それはWHO(世界保健機関)の「健康とは身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態であり、単に病氣や障害がないということではない」という定義によく現れています。これは、正常とされる健康を得るためには、異常とされる病氣や障害を取り除くだけでなく、さらにより良好な状態を目指す必要がある、と読めます。常識的におかしくは見えませんが、正常および異常は価値判断ですから、つまり正常や異常とされるものが物体のように存在しているのではなく、ある状態や状況をそう名づけているだけのことですから、誰がどういう基準で判断するのかが問題になります。しかし、そこがあいまいなまま、「正常は異常でないこと」とし、正常を得るために異常なものをひたすら排除していく方向が目指されてきました。

 こうして国は、国民に健康を意識した新たな行動を促し続け、産業化された医学・医療は新しい知識や検査技術を用いて新たな異常を病氣と認定し、その撲滅に向かい続けています。最近では、病氣予防どころか老化防止や能力増強までもが、遺伝子検査や遺伝子治療との関連で語られ始めています。健康の水準が際限なく高く再設定されていくような状況では、国民はどこまで健康を求めればよいのかわからず不安になります。

 不安から逃れるにはどうすればよいのでしょうか。一つには健康という価値をどう捉えるかです。健康はそれ自体が目的なのか、それとも人生上の他の価値を実現するための手段なのか。健康長寿に意味を見出す生き方もありますが、健康や命を犠牲にしてもやり遂げたいことをするという生き方もあります。とすれば、病氣や障害があっても、価値実現に支障がなければ全体として健康といえます。まずは健康問題を人任せにせず、自分の人生との関係で健康の基準を決めてみてはどうでしょうか。

 常識とされることを疑ってみるというのが哲学に限らず、学問の出発点であり楽しみでもあります。人文社会系の学問には、自然科学系の学問を批判する機能があるので、理系のテーマと思われるものについても人文社会系から、あるいは学際的にアプローチしたものに目を向けていただければ、大学の教員としてはうれしいですね。

 (撮影=2010年6月9日/東北薬科大学哲学教室にて)

研究者プロフィール

東北薬科大学 哲学教室 教授
専攻=哲学
渡辺 義嗣 先生

(わたなべ・よしつぐ)大阪大学文学研究科修了。岩手医科大学を経て1990年より現職。

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