研究者インタビュー

舞台創りは「究極のデザインワーク」

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若者たちの目を見てミュージカルを始めた

 私は最初から舞台芸術を目指していたわけではありません。1993年、40歳になる年にたまたまご縁があり、新しく開設された札幌のデザイン系高等専門学校に赴任しました。着任早々、15歳の新入生たちの輝く目を見たとき、何故か突然「この若者と学園祭でミュージカルをやりたい」とひらめいたのです。私の提案に2クラス80人のうち60人が賛同してくれて、手探りの舞台創りが始まりました。しかし私は、それまで舞台創作に一度も携わったことがなかったのです。

 私は、彼らにうれしかったことや悲しかったことなど自分の過去を話してもらい、それを脚本にまとめることから始めました。勿論歌やダンスも取り入れ、全てがオリジナルであることにこだわりました。この公演は大成功を収め、3年後の1996年には、オリジナルの長篇ミュージカルを、学外の一般のお客さまにも見ていただこうとSapporo Performing Arts(現:劇団I’M(アイム))を設立しました。そして翌年、札幌に加えて神奈川、福岡でも公演を成功させ、以来16年、舞台創作が私のライフワークになりました。

 10代から20代の年代が中心である「劇団I’M」のキャストやスタッフは社会人や学生が多く、全員がプロではありません。しかし「お金を払って見ていただく」プロフェッショナルであるということに軸足を置くことで、アマチュア劇団や市民劇団という枠組みを超えた、独自の成長を続けてきました。この16年間、札幌を中心に毎年北海道内各地でミュージカルを上演し、名古屋、神戸、福岡など全国でも公演を行っています。私が3年前に東北福祉大学に赴任したことが縁で、昨年3月には仙台の皆さんに初めて舞台(オリジナルミュージカル『卑弥呼』)を観ていただくことができました。この『卑弥呼』という作品には、東北福祉大学の学生をはじめとする地域の方が、キャストやスタッフとして数多く参加してくださいました。

 ミュージカル等の舞台創作は“総合芸術”と言われています。出演者たちはセリフを語り、演技するだけでなく、歌を歌い、ダンスを踊ります。脚本を書く人、作曲する人、振り付けを考える人など、多くのスタッフが関わります。また大道具・小道具など、舞台美術をデザインする人や、照明や音響で腕をふるう人たちも不可欠です。今では劇中に映像制作も加わりました。

 更に私たちの劇団では、チラシやポスターのデザイン、そして公演全体のプロデュースまで、外部に委ねることなく全てを自分たちで行っています。ありとあらゆるジャンルの創造表現が統合されるミュージカルの舞台は、まさに典型的なコラボレーション(共同作業)の成果だと言うことができるでしょう。

2010年3 月7 日ミュージカル『卑弥呼』東北福祉大学公演より

子どもたちに教わり続けた日々

 私は福岡市の博多に生まれ育ちました。「どんたく」や「祇園山笠」が有名な“お祭りの町”である博多では、ノリが良い盛り上がりやすい人は「のぼせもん」と呼ばれます。もちろん私もその一人です。私は学生時代にカーデザイナーを目指し、地元の九州芸術工科大学に進学しました。この大学は芸術工学部だけの国立の単科大学で、今は九州大学に統合されています。「芸術工学」とは広い意味でのデザインを研究する学問です。当時この学部は全国でここ1つだけでしたから、全国から学生が集まってきましたし、先生方もユニークな方ばかりで、まさに熱氣に溢れる血氣盛んな大学でした。

 私はプロダクトデザインコースを卒業し、本田技術研究所デザイン部に就職します。首都圏に移ったことで、熱に浮かされるように映画、美術展、そして舞台鑑賞に明け暮れました。演劇では寺山修司、つかこうへいらが活躍していた時代です。結果的にはこのとき培った目や感覚が、後に自分で劇作を行い、劇団を運営する際に大きな役割を果たすことになりました。

 職場では四輪車から後に、二輪車のデザインも担当しましたが、徐々に「これが本当に自分を活かす道なのだろうか」という疑問が強烈に沸き始めました。週末にさまざまな芸術表現に触れていたこともあって、自分の興味が人間そのものに向かいつつあることを感じていたのです。そんなとき大学時代の先輩が、夫婦で子ども向けの美術教室を開いていることを知り、千葉県に訪ねて行きました。小さなアトリエでしたが、子どもたちは、喜々としてモノ創りに取り組んでいました。

 その姿から発するエネルギーに圧倒された私は、何の迷いもなく会社を退職し、神奈川県の茅ケ崎市で子どものためのデザイン室を開きました。下は4歳から上は中学生までが集まり、無我夢中で作品を作っている様子は、まさに「人間の生きる原点」を見るようでした。指導しようにも、私が身につけて来た技術や経験、そしてカンなど、まるで役に立ちません。むしろ私の方が、子どもたちから大切なものを教わり続けたのです。

 不思議なことに、通って来てくれる子どもたちの学校の成績が向上するという現象が起きました。私は「モノづくりで想像力を膨らませ、集中力を高め、エネルギーを燃焼させる、という経験を積み上げた結果ではないか」と考えています。  

 この時期、私は世界的な遊具デザイナーである和久洋三氏に出会いました。氏が代表を務める「おもちゃの科学研究会」には創設時から参加し、「人間と表現活動」について多くのことを学ばせていただきました。子どもたちとの実践と研究を通して、真の教育とは、互いに響き合い育み合う“響育”でなければならないのでは、と考えるようになりました。

何歳からでも創造で自身の可能性が開ける

 新しくできる札幌の高等専門学校で、プロダクトデザインの教師を必要としているという話を大学時代の先輩からいただき、私は札幌行きを決意しました。尊敬していた建築家の故清家清氏が初代校長を務め、先進的な学校運営を行おうとしていたことにも強く興味を引かれました。

 子どもたちとの世界では、人間が表現に熱中する原初的な姿に触れることができましたが、札幌高等専門学校では、卒業後に続けて学べる専攻科もできたことで、15歳から22歳という幅広い年齢層の若者たちに出会えました。就任前は「この若者たちとミュージカルをやろう」など思ってもいませんでしたが、舞台表現こそが、これまでの人生でこだわり続けて来た、創造に対する根源的で本質的な表現欲求を燃焼させるにふさわしい場所だという直感がはたらいたのかもしれません。

 最初のうちは人前で自分を出すことを恥ずかしがり、他者とのコミュニケーションに危うさを感じさせる学生たちが、活動に身を入れるうちにたくましく変身した例は数知れません。中には演劇やダンスなどの分野で、プロや指導者になる者も出ています。私たちの劇団では、役者として舞台に立つだけでなく、裏方を務めるスタッフも舞台創りの議論に加わります。互いに想像力を膨らませ、共同でものを創り上げる経験をすることで、若者たちは驚くほど可能性を広げることができるのです。

 私自身も舞台創作に出会ったことで、表現者として全く新しい領域に踏み込むことになりました。今では脚本や演出やデザイン監修にとどまらず、作曲にも取り組んでいます。これからも、全てをオリジナルで創り上げることの意義を大切にし、若者たちの可能性を開く場で在りたいと考えています。

 総合芸術としての舞台創作は、合わせて人が育つ場でもあるという意味で、「究極のデザインワーク」だという強い信念があります。私たち芸術工学会に所属する研究者は、芸術と工学が別の概念であるとか、対立する存在であるとは考えていません。人間が全霊をかけて生み出すものを、アートと呼ぶかデザインと呼ぶかといったことはあまり大きな問題ではなく、互いに触発され、未知なる直感に出会い、新たなる創造の世界に駆り立てられることが幸せなのです。創造力とは「自分を幸せにする力」であり、私も創造的な人生を送りたいと願っている訳です。創造することで自身の可能性を開くという経験は、若者だけの特権ではありません。私が40歳を過ぎて新しい表現形式に出会ったように、何歳になっても可能です。私自身、これからの自分が「どこまで遠くに行けるのか」が楽しみでなりません。今年も市民参加型の舞台を、北海道の日高と鹿追で行います。また「劇団I’M」は来年に向け、拠点を札幌から仙台へと移す準備を進めています。今これをお読みの皆さんとも、いずれお会いできますことを、心から楽しみにしています。

(取材=2011年8月29日/東北福祉大学一号館4階 三木研究室にて)

研究者プロフィール

東北福祉大学 総合マネジメント学部 情報福祉マネジメント学科 教授
専攻=ユニバーサルデザイン・舞台創作
三木 弘和 先生

(みき・こうわ)1951年福岡県生まれ。九州芸術工科大学(現・九州大学)芸術工学部卒業。株式会社本田技術研究所勤務、子どもデザイン室主宰を経て、1991年に札幌市立高等専門学校助教授に就任し、後に教授。1996年、札幌市でオリジナルミュージカルの舞台創作団体「劇団I’M」を設立し、主宰。2008年より現職。

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