研究者インタビュー

大工たちが伝えてきた伝統の建築技術

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広く知られた気仙大工という“ブランド”

 日本の伝統建築と聞くと、皆さんは有名なお寺や神社、五重塔などを思い浮かべるかもしれません。そうした建物を見ていると心が落ち着くとか、木造建築に特有の、年を経たからこその味わいが好きだという方もいらっしゃるでしょう。私も子どもの頃からお寺や神社の建物が大好きで、高校時代に関西で歴史的建造物を見たことが、建築の歴史や木造建築を専門に研究するきっかけになったように思います。

 学術研究の世界では、これまで大規模な伝統建築は、しばしばその建物を建てさせた有力者や、著名な大工の棟梁の名前とともに語られてきました。しかし私が注目し、研究の対象としてきたのは、無名の職人たちです。

 日本の各地で古くから造られてきた寺社や大規模な住宅には、非常に高度な技術が用いられています。しかし実は、普通の民家の建築や家具・建具などの加工にも、たいへん優れた技が発揮されてきたのです。歴史をさかのぼって、こうした技を受け継ぎ、発展させてきた日本の大工たちを調べたところ、他の地域の大工との結びつきなど、興味深いことが数多く明らかになりました。

 皆さんは「気仙大工」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。気仙とは岩手県の沿岸南部の地域名で、今の陸前高田市、大船渡市、住田町のあたりです。宮城県気仙沼市のすぐ北で、江戸時代は仙台藩の領地でした。ここに集まって住んでいた大工たちが、藩内各地に出稼ぎを繰り返して、寺社建築や土地の有力者たちの大規模な住宅づくりに腕をふるいました。彼らが気仙大工です。

 仙台の城下町にも、「大工町」という地名が残っていることからも分かる通り、大工が集まって住む地区がありました。また、それぞれの地域にも大工がいて、一般の民家を建てていました。しかし仙台城下以外では、大きな建物の多くは、気仙大工による仕事です。高い技術と豊富な経験、そして強い結束を誇る彼らは、時には災害復旧のために遠くへも出かけていきました。気仙大工という“ブランド”は藩の内外で知られるようになり、それは現代も続いているのです。明治時代に建てられ、120年後の今も登米市に残る高等尋常小学校の建築を支えたのも、気仙大工の技術でした。

 古い木造建築物が解体や修理をされる際に、建築年や大工の棟梁の名を記した「棟札(むねふだ)」と呼ばれる札が見つかることがあります。気仙郡居住の大工名を記した棟札は、岩手県南から宮城県北にかけて数多く発見されています。また解体をしなくとも、構造や工法の特徴から、気仙大工の仕事である可能性が高い建物も判別することが可能となっています。
 

大工が集まって住む村が全国にあった

 周辺の他の地域に比べると、気仙地域は広大な耕作地にも天然の良港にも恵まれていませんでした。しかし良質な木材となる杉やヒノキが豊かに育つ山と、川と湾がありました。これらを背景に木の伐採から製材までを担う木挽(こびき)や、建物を建てる大工になる人の割合が増え、代を重ねるうちに、高い技能を持った職人集団になっていったと考えられます。

 実は全国的に見れば、気仙大工のように大工が集まって住む地域は他にもあります。山形県には小国大工などの例がありますし、長野県の木曽大工は全国的に有名です。このように、都市部ではなく農村部に集まって住み、出稼ぎを繰り返して暮らす大工のことを、専門的には「在方(ざいかた)集住大工」と呼びます。

 気仙大工はその典型的な例ですが、それぞれの発生や集住の理由もさまざまで、詳しいことはよく分かっていませんでした。そこで私は、気仙大工から始まった研究を発展させ、全国の大工集住の村を訪ね、また彼らの仕事を検証してきました。2010年には、その研究成果の集大成として『近世在方集住大工の研究』(中央公論美術出版)という本をまとめることができました。

 陸前高田市の小友町は、気仙大工“発祥の地”とも言うべき地域で、江戸時代から大工の集住が進み大工村を形成していたところです。また同市今泉集落は、藩政期を通じて気仙郡の郡政の中心地で、この集落のほぼ中央の山手側には気仙郡の大肝入(おおきもいり)を代々務めていた広大な吉田家屋敷が配置されていました。藩主が領内を巡視した際に宿泊所になったところでもあり、仙台藩で見られる最後の大肝入屋敷でした。そこの吉田家住宅は享和2年(1802)に気仙郡の御郡棟梁(おごおりとうりょう)
を務めた七五郎が建設したことも判明していました。したがって、大肝入吉田家住宅は気仙郡と気仙大工の象徴的な住宅建築といえ、岩手県の文化財に指定されていました。さらに今泉集落については、藩政期の貴重な史料が数多く発見され、なかでも七五郎の家からは、畳1枚ほどもある町場全体の詳細な絵図が発見されました。この絵図には、町場の家の一軒一軒について、間取りや柱の位置までが細かく記されていました。それぞれの家の広さや、どこに二階建ての家があったかが明らかになり、私は学生とともに、町場全体の立体模型を造りました。茅葺きはごく一部で、多くは杉の皮で葺いて石を乗せた石置き屋根であることが他の史料から分かったため、それも再現しました。

 しかし皆さんご存じの通り、陸前高田市は東日本大震災で大津波に見舞われました。今泉地区も壊滅的被害を受け、吉田家住宅を含め、ほとんどの建物が倒壊、流失してしまいました。貴重な史料の数々も全て流されてしまい、今では私の研究室にその写しの一部が残っているだけとなりました。

右:大崎地方古民家のオリジナル模型

見直される伝統的な価値観と技術

 今泉地区には左官職人も多く、質の高い木造建築や土蔵が数多く残されていました。町場の家々には、きまって表通りから裏に抜けるための半間(約90cm)の通路が設けてあり、二階建ての家ではその上に二階部分が突き出しています。このきまりは近年建てられた家でも守られ、この町特有の景観を形成していました。

 千年にわたって人が住み続け、大工が集まって住む町として発展してきた歴史ある町が、津波で失われたことは残念でなりません。私は今泉に限らず、歴史ある町の真の再生のためには、地域の歴史と文化に学び、これを未来に伝える努力をすべきだと考えています。

 私たちはこれまで、豊かさや便利さを追求してきました。しかし東日本大震災をきっかけに、忘れられていた価値を大切にしようという氣運が高まっています。古い結びつきとして否定されがちだった、地縁や血縁が再び見直されつつあります。自然とともにある暮らし、地域内での自給システム、そして地域社会と職人との関係などもそうです。日本の伝統建築を支えてきた大工の技術もまた、「温故知新」の心で学び、再評価する必要があるのではないでしょうか。

 世界最古の木造建築である奈良の法隆寺に代表される通り、日本の木造建築の技術は、古代でも高度に発展していました。確かに最初は、大陸から伝来した技術だったでしょう。しかし、中国や朝鮮の木造建築と見比べて、日本の木造建築技術は詳細な部分まで計算された独自の高度な技術を持って展開してきたことを強く感じました。そしてそれを支え、今日に伝えてきたのは、無名の大工職人たちだったのです。

 日常的な「衣食住」のうち、住である建築は、市民の皆さんにとって比較的難しく考え、専門家でないと分からないと思われがちかもしれません。しかし実は皆さんは、毎日を暮らすことで建物についての感覚を磨き、日曜大工などを通じて経験的に学んでいます。木造建築やその技術について学ぶとき、その感覚や経験はきっと役に立つはずです。

 残念なことに、現代の大規模な建築物はほとんどが木造以外の構造です。次の世代を育成する大学でも、木造建築を専門的に学ぶ講座の開講は少ないのが実情です。しかし、私は木造建築にはまだまだ大きな可能性があると思っていますので、木造建築とその技術を学ぶ機会を、もっと多くしたいと思っています。市民の皆さんにも、ぜひ日本の伝統建築、木造建築に、これまで以上に興味をもっていただければと願っています。

(取材=2011年11月24日/東北工業大学・5号館5階 会議室にて)

研究者プロフィール

東北工業大学 工学部 教授
専攻=日本建築史
高橋 恒夫  先生

(たかはし・つねお)1948年宮城県生まれ。東北工業大学工学部建築学科卒業。工学博士(東京大学/建築史・意匠)。東北工業大学講師・助教授などを経て、1995年より現職。

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