研究者インタビュー

医療の課題をデータで解決するために

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宮城大学 看護学部 准教授
専攻=公衆衛生学、人類生態学
萩原 潤 先生

看護師に統計学が必要な理由とは

 看護学科で統計学を担当しています。「看護師になるのになぜ統計学が必要?」と思う学生もいるようですが、個人ではなく集団を対象とする疫学では、統計の知識が欠かせません。

 疫学は、最初は疫病、つまり伝染病を研究する学問として始まりました。1800年代の半ば、ロンドンである伝染病が流行します。患者のデータを地図に記した医師ジョン・スノウは、近所に住んでいても必ず伝染するとは限らないことに氣づき、患者の多くが同じ取水設備を使っていたことをつきとめました。空氣ではなく水で感染すると考え、その水の使用を禁じたところ、患者が劇的に減少したのです。

 この伝染病の原因がコレラ菌だったことが判明したのは、それから30年も後のことでした。こうして、個人を調べただけでは解決できない問題が、集団を調べることで解決できることや、原因が判明していなくても、有効な対策や予防策がとれることが分ったのです。

 疫学研究の方法は伝染病以外にも用いられるようになり、現在では地域や集団を対象とする、健康に関わるあらゆる課題に取り組む学問として確立されています。看護師はたしかに患者さん個人をケアする仕事ですが、疫学、そして統計学の知識も必要だというわけです。

 統計・確率は中学や高校の数学で習います。しかし方程式などの他の分野と違って、絶対に間違いのない、唯一の答えを出そうとするものではありません。現実的な課題の解決、中でも「将来を予測したい」という要望に応えようと発展してきた学問です。

 人類の歴史をさかのぼれば、「統計・確率は賭けやギャンブルから発生した」と言うこともできるでしょう。産業革命の時代には、農学が統計学の発展を促しました。肥料をどれだけ入れれば作物の収量がどれだけ増えるのかを正確に調べ、集計したり比べたりすることで、データに基づいて効率的に生産を拡大しようとしたのです。

 また当時の経済学では、生命保険の問題が、統計が活用された代表例です。破綻することなく死亡保険金を支払うためには掛け金をいくらにすれば良いのかという問いに答えるために、多くの人を観察して人間の死亡に一定の規律性があることをつきとめたのでした。そして今では、天氣予報の降水確率など、統計は私たちにとって身近で役立つ学問になっています。

 かつては経験や直感に頼っていた判断を、過去のデータを調べ、数値に基づいて行おう、客観的な指標を見つけ出し、それを基に将来を予測しよう、これが統計学の考え方です。

患者さん自身が治療法を選ぶ時代に

 タバコと肺がんとの関係は、近年、医療分野に統計が活用された典型的な例と言えるでしょう。この研究は内科医たちの、「タバコを吸う人は肺がんになりやすいのではないか」という直感から始まりました。まず内科医の中で、タバコを吸う人と吸わない人の間で、肺がんになった人の割合を調べたのです。そこに明からな差があることが分ると、しだいに調査の対象を広げ、ついに「タバコを吸う人は肺がんになりやすい」「タバコを吸う家族と同居していて、その煙を吸わされる人も肺がんになりやすい」という結論に至ります。

 今では、タバコと肺がんの関係を疑う人はいないでしょう。しかし私たち人間は複雑な存在で、ある病氣の原因を一つに絞ることは極めて困難です。タバコをたくさん吸っているのに肺がんにならない人もいれば、タバコを吸わないのに肺がんになる人もいます。タバコを吸う権利や自由も、否定はできません。けれど100%でなくても、統計からある程度確かであることが分れば、私たちはそこに因果関係を認め、決断・行動することができます。2003年には、受動喫煙の防止が盛り込まれた「健康増進法」が施行されることになりました。

 このように、確率・統計はある現象とある現象の間に因果関係を見出そうとする学問です。従って私たちがこの社会や世界を「どうとらえるか」という問題と深く関わっています。統計は数値を扱いますが、最後は人間の価値判断によるのです。

 現在は治療行為に、科学的な根拠が強く求められるようになりました。これを「エビデンス」と言います。「その薬はどういう仕組みで効くのか」「その治療法はどの程度の効果が期待できるのか」といったことを、データに基づいて明らかにし、判断の材料にしようとしています。

 もちろん、今までのような医師の経験に基づく診断・治療や、これまで行われてきた治療の有効性が否定されているわけではありません。しかし患者側もそうした根拠を知りたいと思うようになり、医療側はその要望に応えようと努めています。

 検査技術が発達した今は、病院でさまざまな検査が行われるようになりました。そしてその結果から、たとえば「がんの5年生存率」、つまりある治療法によって5年後にその患者さんが治っている可能性を、統計に基づく数値で表すことができるようになっています。

 この数値は、その患者さんやご家族の人生や生活に、直接的に関わります。手術その他の治療法のうち何を選ぶのかを、かつてのように医師が主導的に決めることは、今ではありません。医師が示すデータや意見を参考に、患者さん自身が治療法を選ぶ時代になったのです。

パプアニューギニアの生活に学ぶ

 コンピュータが発達し、情報網が整備された現代では、膨大な情報を収集し、集計・分析することが容易になっています。そのため統計学の理論と活用は、ここ10年ほどで飛躍的に発展しました。たとえば私たちが持ち歩いている携帯端末やポイントカードなどの利用データの一部は、個人が特定されないように処理された上で、さまざまな商業活動に使われています。

 こうした情報の蓄積と活用によって、私たちの生活はさらに便利になるでしょう。しかし一方では、個人情報の保護にも配慮が必要です。ヨーロッパを中心に、蓄積された自分の情報を確認する、場合によっては望まないデータの削除を求める「忘れられる権利」を主張する動きも出ています。

 私自身は、統計学の専門家でも医学の専門家でもありません。環境問題に関心を抱き、大学では環境経済学を学びましたが、より広く人間と環境の関係を考えようと、大学院では人類生態学を選びました。

 人間は地球のいろいろな場所に住んでいます。標高や氣候などの自然環境によって人の体にも違いがあらわれますし、逆に人間の活動によって自然環境も変化します。こうした、人間と環境の間の相互作用を明らかにしようとするのが人類生態学です。まだ新しい学問なので方法論が確立しているとは言えませんが、人類学や生態学、そして統計学などの様々な研究方法にも学びながら、研究を進めています。

萩原研究室に掲示されているポスター

 私は何度かパプアニューギニアに行き、電氣や水道がまだ普及していない集落に入ってきました。そこには狩猟や採集で食べ物をまかない、マキで火をたく生活が今も残っています。人口を数え、身長や体重、食べているものなどを調べ、時の経過による変化を追いました。

 自給自足的だった集落にも、徐々に近代化の波が押し寄せています。経済活動が盛んになることで、生活水準は向上しました。一方で自然環境は大きく変化しつつありますし、それまでは飲まなかったアルコールが入ってきてからは、新たな問題も発生しています。パプアニューギニアの人々の暮らしを調べることで、今は失われてしまった私たちの祖先の暮らしに迫ることができるだけでなく、私たちの文明の今後について考える材料を得ることもできるでしょう。

 最終的にどう考え、判断するかは人間次第です。しかし何事も、まずは客観的な数値やデータとしてまとめ、分析することで、より良い将来へと結びつけられるのではないでしょうか。実学として発展してきた統計を、市民の皆さんにも大いに活用していただければと思います。
 

(取材=2014年2月13日/宮城大学大和キャンパス本部棟3階・萩原研究室にて)

研究者プロフィール

宮城大学 看護学部 准教授
専攻=公衆衛生学、人類生態学
萩原 潤  先生

(はぎはら・じゅん)1971年山梨県生まれ。高崎経済大学経済学部卒業。東京大学大学院 医学系研究科 博士課程修了。博士(保健学)。同研究科客員研究員、宮城大学看護学部講師を経て、2008年より現職。

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