研究者インタビュー

仙台を発展させた政宗の都市計画

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32巻の『仙台市史』が来年完結

 20年以上にわたって携わってきた『仙台市史』も、全32巻の31巻目が5月に発売となり、いよいよ来年2月刊行予定の「年表・索引」を残すだけとなりました。32巻にも及ぶ市史というのは全国的にも珍しく、仙台という都市の歴史的・文化的要素の豊かさを表わしていると言うことができるでしょう。

 編さん事業が始まったのは、1991年ですが、記述の対象は1989年までで、この年は仙台が政令指定都市になった年でもあり、昭和が終わり、平成が始まった年でもあります。したがって、3年前に発生した東日本大震災は詳しくは扱っていません。震災は、復興も含めて現在進行形の出来事であって、歴史事象として記述する段階には至っていないのです。『仙台市史』は現在のもので4度目の編さんとなりますが、東日本大震災は、次に編さんされる『仙台市史』の内容の柱になるでしょう。

 仙台のまちが伊達政宗によって開かれたことはご存じと思いますが、それ以前のことはあまりよく知られていません。実は仙台平野は、古くから人が暮らすのに適し、政治や経済の拠点となる場所でした。海と山と平野がそろった豊かな土地である仙台は、同時に様々な道が集まる交通の要衝だったのです。

 東北地方を南北に縦断する道は、昔も今も内陸を通るものと海岸沿いと2本の道筋になるのですが、仙台平野は地形的にその二つのルートが自然に交わる地点となります。

 加えて仙台平野には、南北ばかりでなく東西の道も集まってきます。峠を越える街道は、昔から大きな川沿いのルートが選ばれてきました。南東北においては、広瀬川や名取川の源流をさかのぼって山形側へ結ぶ道がもっとも効率的だったのです。

 さらに仙台平野は、塩竈や七北田川・名取川の河口に港を築くことによって、海の道とも結ぶことができたのです。

 道は、政治や経済、流通、文化に大きく関与する施設で、弥生時代になって権力者が登場するようになると、道が集中する仙台平野は自然と東北地方の中心となっていくのです。遠見塚古墳をはじめとする大規模な古墳が作られ、その後、律令国家は陸奥国の国府を郡山遺跡、後に仙台平野の北端に位置する多賀城に営みます。発掘調査が進んだ現在では、多賀城から仙台市の岩切にかけてのエリアが、古代から南北朝時代まで一貫して東北の中心地であり続けたことが分っています。南東北の覇者であった政宗が仙台に城を築いたのは、きわめて自然なことだったのです。

最新の研究で政宗像を読み直す

『仙台市史』を紐解きながら

伊達政宗は、小説やTVドラマの主人公、さらにはゲームのキャラクターとしても大変な人氣者です。それだけに史実とは言えない「通説」も広く流布し、歴史を伝えることを仕事とする立場としては悩ましいところもあります(笑)。

 当時の南東北では、領主同士が互いに縁戚関係にあり、相手を全滅させることは、まずありませんでした。あえてそれをしたことによって政宗が、織田信長のように恐れられたことは確実です。しかし政宗は、南東北の統一を、強大な兵力や恐怖を与えることで成し遂げたわけではありません。政宗の書状を分析すると、敵の中に巧みに内応者を作るなどして主に外交力で領地を広げており、優れた知略家の姿が浮かび上がってきます。

 政宗は戦国武将の中でも飛び抜けて多くの書状を残していますが、それらを読み込む作業は、思わぬ発見の連続でした。たとえば19歳の時のある戦いに関して、殺した敵の人数が全く違う本人の書状が3通残っています。その人数は、母の兄である最上義光への手紙では大変多いのですが、師にあたる人物には少なく、そして親しい家臣へは、さらに少なく知らせているのです。私は実数に近いのは3通目で、人数が多いのは、若かった政宗が見栄を張ったのではないかと考えています。

 支倉常長らをヨーロッパへ送り出した慶長遣欧使節については、天下取りを諦めていなかった政宗が、スペインに艦隊派遣を要請するためのものだったという説があります。しかし、当時の日本は世界最大の軍事国家で、徳川幕府は数十万人の軍事力を持っていました。スペイン船の運搬能力を考えれば、3万人の動員がせいぜいだった伊達氏は、たとえ援軍を得たとしても幕府を倒せる可能性は皆無でした。そのことは政宗自身がよく分っていたはずです。遣欧使節は、貿易を主目的とした幕府とのジョイント・ベンチャーだったと考えるのが妥当でしょう。

 遣欧使節については、その2年前に発生した地震や津波からの復興が目的だという説も唱えられています。しかし、この説では、当時は頻発する飢饉の方が津波よりももっと甚大な被害を社会にもたらしたことや、交易船を1隻2隻派遣して、それで得られる利益がどの程度なのか、そうした冷静な分析が欠けています。今回の震災の被害や復興状況と、かつての様子をごっちゃにしたもので、妥当な説とは考えることができません。

 一方で政宗は、都市計画の立案者としてきわめて有能でした。仙台城下の道は基本的に碁盤の目状になっていますが、これは政宗が、ほぼあり得ない敵襲に備えることよりも、住みやすさや経済発展を重んじたことの表われです。

 仙台は空襲で中心部を焼かれ、政宗の時代から続いた緑豊かな景観を失いました。しかし、戦災からの復興を成し遂げたまちには、今でも政宗の構想した街路の多くが生きています。道幅こそ広くなりましたが、政宗の都市計画の確かさは、仙台を100万都市へスムーズに発展させた原動力でもあったのです。

「通説」を疑うことも歴史を学ぶ楽しさ

 私が市民向けの講座などで話をする際、「通説」に対する疑問を紹介することがあります。歴史上の出来事はいろいろな評価をすることができます。一方からの評価だけではなく、別な視点を加えることにより、歴史上の出来事は違った姿を見せることがあります。そうした話などをもとに、数年前に河北新報に1年間の連載を持ち、『せんだい歴史の窓』という本にまとめることができました。

 歴史に親しむきっかけは、小説やTVドラマ、マンガなど何でもかまわないと思います。学校での歴史の勉強は暗記ばかりで嫌いになってしまう人も多いようですが、年号や地名、人名などの情報は調べれば分ることですから、歴史の流れや因果関係に関心をもてば、歴史の楽しみはぐっと広がってきます。

 そもそも教科書や歴史書は、全部が正しいことを書いているわけではありません。古文書や発掘調査の結果から分ったことで、現時点で多くの人、あるいは著者が妥当と考える説を記しているだけです。したがって、研究の進展に追い付かず、間違った古い説が教科書に残っていることも少なくありません。大学・博物館の研究者や郷土史家の方々の地道な活動、発掘調査によって、今も歴史は書き換えられ続けているのです。

 私自身は子供のときに、母に連れられて古墳の発掘現場の説明会に行ったり、父に『目で見る仙台の歴史』という本を誕生祝いにもらったりしたことが、郷土史に興味を持つきっかけになりました。中学では郷土研究クラブに入って史跡を見て回り、大学と大学院では日本中世史を学びました。

 私は決してまじめな学生ではなく、高校時代には学校をさぼって六郷・七郷や広瀬川辺りを散歩して回ることもあったし、大学入学後も、測量や発掘調査のアルバイトに熱心なタイプでした。しかし自転車で自分の住む町や周辺を走り回って色んな風景に接したことや、アルバイトの現場で同僚となった農家の方、年輩の方とお話しさせていただいたことは、郷土史の研究や、歴史の面白さを市民に伝える仕事に大変役立っています。

 「歴史に学ぶ」と言っても、歴史の知識が政治や経営にストレートに役立つことは少ないかもしれません。しかし歴史は、人類が長い間に蓄積した活動を対象としたものであり、それは人類のアイデンティティと言っても過言ではないでしょう。たくさんの人の生きざまを一望できる、そんな学問が楽しくないわけがないのです。

 今は、IT機器を使いこなしたり、英語を身につけたりする力が大切だと言われています。しかし新しい課題に取り組み、本当の意味で世界への広がりやつながりを持つためには、歴史を知り、日本語でしっかりとコミュニケーションできる力をおろそかにすることはできません。その意味でも、市民の皆さんが大いに歴史を学び、楽しまれることを願っています。

(取材=2014年5月26日/仙台市博物館1階 情報資料センターにて)

研究者プロフィール

仙台市史編さん室長
専攻=郷土史
菅野 正道 さん

 (かんの・まさみち)1965年宮城県生まれ。仙台第一高等学校卒業。東北大学文学部卒業。東北大学大学院文学研究科修士課程修了。1991年より仙台市職員として仙台市博物館にて仙台市史の編さんに携わり、2010年より現職。著書に『せんだい歴史の窓』、『よみがえるふるさとの歴史3 イグネのある村へ 仙台平野における近世村落の成立』(近刊)。

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