研究者インタビュー

被災地の方々に学んだ防災の課題

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尚絅学院大学 総合人間科学部・大学院総合人間科学研究科 教授
専門=社会心理学
水田 惠三 先生

社会心理学者として震災の現場へ

 大学院で心理学を学んだ後、山形少年鑑別所に6年間勤務しました。ここで言う「少年」は14歳以上20歳未満で、男女両方が含まれます。家庭裁判所が非行のあった少年に審判を下す前に、調査・診断を行う施設が少年鑑別所です。私の仕事は心理検査やインタビューで、様々な専門家が協力し、非行の原因や今後の立ち直りについて「考査結果通知書」を作成します。これが家庭裁判所での審判や、少年院での指導に活用されるわけです。

 少年の非行には、本人の心理的な問題だけでなく、家庭環境や社会環境の問題が大きく関わっています。私の専門である社会心理学は、「社会や集団の心理」の研究というよりも、社会や集団が個人の心理に与える影響について、主に考える学問です。少年鑑別所には大学院の先輩の紹介で勤務しましたが、その経験からは多くのことを学びました。

 1989年、当時の尚絅女学院短期大学が、仙台市内から現在の名取市ゆりが丘に移転します。同時に人間関係科を設置することになり、私が社会心理学を担当することになりました。以後、援助行動、集団行動、災害後の行動などを主なテーマに、研究を続けています。

 社会心理学で言う「援助行動」とは、人が自発的に他の人を助ける行為のことです。人が援助行動に踏み切る動機は思いやり、あわれみなど様々ですが、道に倒れている人を見ても、誰もが救助しようとするわけではありません。そこで人命救助の功績で新聞に載った人を訪ね、当時の状況や動機を聞き取るなどして調査・研究を行いました。実際に救助の現場で本人にお聞きすると、「周囲に他にも人がいたのに、誰も助けようしなかったので」といった話も出てくるのです。

 1995年、阪神淡路大震災が発生します。被災者の心理はほとんど研究されておらず、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉も一般にはほとんど知られていなかった時です。
「とにかく現場に行こう」と考え、約3週間後に現地に入りました。飛行機で大阪へ行き、JRとバスを乗り継いで神戸の避難所にたどり着くと、まだ大混乱の状態です。調査はためらわれましたが、思い切って避難所のリーダーの方に申し出たところ、ほとんどの方が快く応じてくださいました。

 避難所の管理運営は大変です。しかし市役所の職員らが業務として行っていたわけではなく、学校長や地域の住民などが、使命感から担っていたことにまず驚きました。避難者の数、運営組織を立ち上げた理由、困っていることなどをお聞きして回りましたが、実際の支援はほとんどできません。記録の意義を認め、ご協力いただいた方々には本当に感謝しています。

 3日ほどで現地を離れましたが、その後も通ってお話を聞き続けました。その内容をまとめたのが、『あのとき避難所は
─阪神・淡路大震災のリーダーたち』という本です。こうして災害発生時の心理や、避難所や仮設住宅の方々の研究を、中心的なテーマとするようになりました。

自らが体験した東日本大震災

 都市部に被害が集中した阪神淡路大震災に対して、2004年に発生した新潟県中越地震で被害が大きかったのは農山間部です。この時も避難所や仮設住宅でリーダーの方々にお話をお聞きして、地域コミュニティの意義を強く感じました。

 2008年に岩手・宮城内陸地震が発生した時は、避難所に大勢の報道関係者が押し寄せました。私も栗原市の耕英地区に開設された避難所を訪ねましたが、インタビューをしたのは自治体の担当者だけです。本格的な調査を始めたのは被災者が仮設住宅に移られてからで、岩ケ崎の行政区長さんには特に詳しくお話を聞くことができました。ここでも印象深かったのは地域の結びつきの強さです。それが元の地域への「帰住率」に、大きく影響することが確かめられました。

 2011年3月11日、東日本大震災の発生当時は研究室にいました。学生生活部長でしたから、中庭に避難した学生らの安否を確認し、まずは帰宅できる学生を帰しました。幸い建物に大きな損傷はありません。私たち教職員と、自宅が遠方のため大学に残った学生たちは多目的ホールに移動しました。今度は自分たちが避難所を運営することになったわけです。

 非常用電源が稼働し、照明や携帯電話の充電は問題ありませんでした。しかし電話自体がつながりません。私の自宅は名取市の隣の岩沼市にありますが、見に行くことができたのは翌日です。国道4号線の信号は停電していましたが、お互いに譲り合って車が流れていた光景には感動しました。

 困ったのは大学内に食糧の備蓄がなかったことです。隣接する附属幼稚園から譲り受けたり、大学の生協店舗にご協力いただいたりしてしのぎました。もちろん今は非常時のための食糧を確保しています。また、夜は合宿用の寝具などを活用しましたが、十分な数ではありません。私もコートにくるまって横になりましたが、ほとんど眠ることはできませんでした。

 地震発生から3日目、残った学生を車で送り届けて私も帰宅することができました。その後は当日学内にいなかった学生の安否確認です。やっと電話がつながって無事が確認できると、そのたびに大きな喜びを感じました。

日常生活の中で心の復興を図る

 4日目以降は研究者としても動き始めました。訪ね歩いた先は、北は岩手県の普代村から南は福島県のいわき市まで、被災地沿岸のほぼ全域です。避難所や仮設住宅の運営に関わる方々はたいへん協力的でしたが、今回も、調査はできても支援はできません。それまでも経験してきた葛藤を、地元で発生した東日本大震災では、いっそう切実に味わうことになりました。

 また当初は、名取市閖上(ゆりあげ)の情報は入ってきませんでした。
1週間ほど後に津波被害の大きさを知り、大きな衝撃を受けます。市内の避難所や仮設住宅にはなかなか足が向きませんでしたが、思い切って訪ねてみると、素晴らしい方々との出会いがありました。

 大学にはボランティアセンターが開設され、学生たちが被災者を訪ねて話し相手になるなどして喜ばれています。また2013年の春、名取市から被災者の記録についてご依頼をいただき、約80名の方にインタビューをして『名取市民震災の記録』をまとめました。尚絅学院大学の「総合人間科学研究所」のホームページからも、ダウンロードしてお読みいただけます。

 私たちは東日本大震災の経験を、どう防災に活かすべきでしょうか。まず、体験を語り継いでいく必要があります。今回は電話がつながらず、災害伝言ダイヤルも十分には機能しませんでした。電話による安否確認ができれば、海に近い自宅に戻っての被災はかなり防げたはずです。また防災無線より、近所同士の声の掛け合いの方が実際の避難を促しました。そして指定避難所も被災したという事実も、決して忘れてはなりません。

 避難所では東北の人の我慢強さが目立ち、メディアでも賞賛されました。しかし避難所や仮設住宅で亡くなった方の多さを考えると、私はそれを素晴らしいことと思う一方、矛盾も感じます。阪神淡路大震災の時の避難所では、被災者が要望を声に出すことで、環境の改善につなげていました。我慢することは東北人の美徳でもあり短所でもあるように感じています。

 また、都市部では被害が小さく復旧が早かったことから「東日本大震災は都市型の災害ではなかった」と思っている人が多いのではないかと案じています。実際には都市部でもそれ以外でも「地域の結びつきが強いほど被害が小さい」という点に違いはありません。次の災害に備えて具体的な目標を定め、行政と住民が共にまちづくりに向けて向かい合うことに努めるべきです。自治体と市民が、対話の機会をさらに増やすよう望みます。

 避難所の運営については大きな反省を残しました。震災前の準備不足を認め、運営マニュアルを作る過程での話し合いを重視するべきです。マニュアルが完成した後も地域で訓練を重ね、改善を続けなければなりません。

 被災者の心の問題については、残念ながら特効薬はありません。快適な住環境の確保や心の通う会話など、日常生活の中で心の復興を図ることが大切です。私も「震災後の生活復興感」などのテーマに、引き続き取り組んでいきたいと思っています。
 

(取材=2014年11月21日/尚絅学院大学本館2階・応接室にて)

研究者プロフィール

尚絅学院大学 総合人間科学部・大学院総合人間科学研究科 教授
専門=社会心理学
水田 惠三  先生

(みずた・けいぞう)1958年 広島県生まれ。岩手大学人文社会科学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程前期修了。修士(文学)。山形少年鑑別所法務教官兼技官、尚絅女学院短期大学講師などを経て、2003年より現職。著書に『あのとき避難所は─阪神・淡路大震災のリーダーたち』(共著・ブレーン出版)など。

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