研究者インタビュー

国連防災世界会議に市民の熱意と参加を

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津波被害の大きさに言葉を失う

 東日本大震災が起きた2011年の3月11日は東京にいました。前日に気象庁主催のシンポジウムがあり、災害時の避難体制の課題について話し合っていたのです。当日の午前は津波警報のあり方を巡る委員会に出席し、夕方からも国主催の会議(評価委員会)が行われる予定でした。

 地震の発生時は東京でのあまりの揺れの大きさに、「東海地震か?」と思いました。しかしインターネットを見ると、震源地は宮城県沖です。これは大変なことになると思いました。早速、WEBで海面の水位をチェックすると大きく低下していて、津波の発生は間違いありません。仙台に電話をかけましたが、自宅にも大学にもつながりませんでした。

 急いで内閣府の防災担当部署に向かいました。災害対策本部が機能し始める前です。テレビやインターネットを見ながら担当官と対応について話していたところ、午後4時過ぎ、NHKが仙台平野に襲来した津波の様子を放送し始めました。信じられませんでした。

 自分がするべきことを考え、津波に関する正しい情報を伝えようとNHKに向かいましたが大渋滞で動きません。すると携帯にテレビ朝日から出演依頼の電話が入りました。本社のある六本木は霞ヶ関の近くです。急いで臨時の放送(報道ステーションなど)に臨み、夜9時からは政府の調査委員会に出席しました。

 仙台に戻ることができたのは翌日です。大学の建物が一部損傷しましたが、幸運にも家族、研究室メンバーや身近な関係者に大きな被害はありませんでした。津波に襲われた地域にはまだ入れず、次の日にテレビ局のヘリコプターから沿岸の様子を見ることになりました。被害の深刻さは想像をはるかに超えていました。私は2004年に発生したスマトラ島沖地震による、インド洋津波の現場も上空から見ていますが、陸前高田市など何度も足を運んで地形や建物を熟知している町の変わり果てた姿を見て、放送中にもかかわらず、まさに言葉を失いました。

 宮城県沖地震の発生と危険が予測され、対策が進められていたこともあって、東日本大震災では揺れによる被害は最低限にとどめることができたと言えるでしょう。しかし私の専門である津波については、浸水域の大きさ、人的物的被害、その後の復旧・復興など、あらゆる面で課題を残したと言わざるを得ません。

学校でさらなる防災教育を

 私が津波工学の研究を志したのは、1983年の日本海中部地震がきっかけでした。100名を超える方が亡くなりましたが、遠足中の児童など、そのほとんどが津波による被災です。当時、東北大学工学部の土木工学科で水工学を学んでいた私は、現場調査に同行し大きなショックを受けました。

 1989年には地震の震源と規模から、津波の到達時間や高さを計算するシステムを開発しました。長年の研究とコンピュータ技術の発達で、かつては30分かかっていた計算が今では最短で1分台になっています。地震の発生直後、テレビなどで津波に関する情報が出るのはその成果です。

 また予想される各地の津波被害の様子を、コンピュータ・グラフィックス・アニメーションで見ていただくこともできるようになりました。宮城県沖地震の発生が予測されていたこともあり、私自身も方々に出向いて、自治体や住民の方が防災・避難計画を立てるお手伝いをしたり、子どもたちへの防災教育に力を入れたりしてきたつもりです。しかし東日本大震災の被害を思えば十分とは言えず、今でも申し訳ない氣持ちでいっぱいになります。初めて津波の被災地に入ることができたのは3月14日で、仙台市の蒲生と荒浜です。あまりの惨状に足がすくみました。

 もちろん私たちの啓発活動は、決して無駄ではありませんでした。仙台市若林区では、盛り土で造られた仙台東部道路に避難した多くの方が、難を逃れています。実は2010年の10月、地域住民、警察、自衛隊の方々などおよそ300人が参加した若林区の講演会で、貞観(じょうがん)津波の堆積物や一帯が東部道路を残して浸水するシミュレーション映像を見ていただいたばかりでした。

 それ以前から仙台市や高速道路を管理する会社に、869年に発生した貞観地震の津波による堆積物を示して、東部道路の内側にも津波の跡があることを話し、避難先として検討してもらっていました。地域の方からも「このあたりで高台は東部道路だけ」「管理のために草刈りをしたから分かるが、急斜面だが何とか登れる」と聞いていたため、「避難先として整備はされていませんが、緊急時には東部道路へ」とお話ししていたのです。震災後は避難先として認められ、階段などが造られたことは、皆さんもご存じかと思います。

 今後さらに力を入れていきたいのは、子どもたちへの防災教育です。震災では、学校の管理下で多くの子どもたちが命を落としました。一方で海に近い小中学校の生徒たちが、地震発生の直後に避難を開始して助かった「釜石の奇跡」のような事例もあります。災害時に適切な判断と行動ができるよう、子どもたちに学んでもらう必要性が改めて明らかになったのです。知識だけでなく、話し合ったり地域を歩いたりして実践的に学ぶための副読本も作成しました。今後も自治体や教育現場との連携を深めながら、さらなる充実を図りたいと思っています。

 もちろん大人にも、さらに知識を得て、判断と行動に役立てていただく必要があります。たとえば東日本大震災の津波では、水の流れの速さが1秒あたり5mから10mにも及びました。津波は高さや浸水域の広さに注意が向くことが多かったのですが、今後は津波のエネルギーの巨大さを、水のスピードからも正確に理解していただきたいと思っています。

災害科学国際研究所と国連防災世界会議

 東北大学では2007年、理系・文系を横断する20分野の研究者が集まって「防災科学研究拠点グループ」を組織していました。自治体、企業、市民と連携して、研究成果を地域に活かす「実践的防災学」の構築が目標です。「災害科学国際研究所」は2012年、これを発展させる形で発足しました。東日本大震災について、地震・津波の発生メカニズムの追究、被害の実態解明、震災記録の収集などに取り組んでいます。

 2014年度からは私が所長を務めさせていただくことになり、青葉山新キャンパスに研究棟が完成しました。この新棟は研究・教育機能に加え、関連資料の保管や発信の機能も充実しています。災害について市民の皆さんに詳しく学んでいただける最新の映像設備や、過去の大地震の揺れを再現できる機器も導入しました。また災害が発生した際の情報収集、避難所の運営、物資の運搬などについて、いろいろな立場で模擬体験できる仕組みなどもあります。準備が整いしだい一般公開を始め、将来は修学旅行生らも受け入れる予定です。

災害科学国際研究所1階の地震体験装置

 2015年3月には、仙台で第3回国連防災世界会議が開催されます。私たちは会議の誘致活動や議論すべきテーマの設定などについて、仙台市に助言と協力を行ってきました。

 国連事務総長の出席が予定されていることからも分かるとおり、この会議は国連において重要な位置づけがなされています。世界に向けて、被災地から被害の実態を発信する貴重な機会であることは言うまでもありません。その一方で、世界中からやって来る防災担当の責任者から、各国の災害事例や防災の取り組みなど、世界の先進的な知見を学ぶ機会にもなるはずです。

 またこの会議を機に、防災関連事業への企業の参画が進むことも期待されています。政府、自治体には年度ごとの予算という制約があるため、今後は日本でも、経済的に自立可能な防災事業の展開が積極的に検討されるべきです。そして仙台・宮城・東北を、被災地であるだけにとどまらない、魅力的な観光地や訪問先として世界に知ってもらうチャンスでもあります。第2回会議の開催地だった神戸市は、国際的な防災研究のメッカとして知られるようになりました。

 今度の会議は「パブリックフォーラム」と呼ばれる、市民に開かれたシンポジウムやセミナーが数多く開催される点が大きな特徴です。『まなびのめ』の読者の皆さんにもぜひご参加いただき、被災地の市民の熱意を示すことで、仙台の国際都市への成長に参画していただければと願っています。

(取材=2014年11月18日/東北大学青葉山新キャンパス・災害科学国際研究所棟3階・津波工学研究室にて)

研究者プロフィール

東北大学災害科学国際研究所 教授・所長
専門=津波工学・災害科学
今村 文彦 先生

(いまむら・ふみひこ)1961年山梨県生まれ。東北大学工学部卒業。東北大学大学院 工学研究科 博士課程修了。工学博士。東北大学工学部助教授、同大学院工学研究科助教授などを経て、2000年より教授。2012年、災害科学国際研究所設置と同時に同研究所所属となり、2014年より所長。

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