東北大学大学院文学研究科 教授
専門=心理学
専門=心理学
大きく変化した「化粧」のイメージ
化粧を研究していると、「なぜ男性は化粧をしないのですか」と聞かれることがよくあります。私の専門は化粧史ではなく心理学なのですが、これは化粧の心理学にとっても重要な問題だと思っています。
化粧の歴史を振り返ると、ヨーロッパでは古代から、体に油を塗るなどの「慈しむ化粧(スキンケア)」と、印象を美化する「飾る化粧(メーキャップ)」を区別してきました。たとえば古代ギリシャでは、スキンケアはコスメティケ・テクネー、メーキャップはコモティケ・テクネーと呼んでいました。古代エジプトでは、強い日差しの下で働くピラミッド建設従事者に、マッサージオイルを支給していました。スキンケアは健康に直結した習慣です。公園の鳩ですら、水浴びをするくらいです。
一方、メーキャップのほうは健康とは別の、見ばえのお話です。それゆえ昔から旗色が悪く、「虚飾」・「偽り」といったよくないイメージもありました。私が大学を卒業した1985年当時ですら、そういう負のイメージがありました。
さて私は卒業後、資生堂に入社し、化粧の心理的影響の研究を始めました。そして化粧が精神的健康に寄与することがわかってきました。それまで心理学会で化粧を題材とした研究が発表されることはほとんどありませんでしたが、次第に化粧の研究が数多く発表されるようになりました。今や化粧は一般的な研究対象となり、多くの大学の卒業論文で人氣のテーマとなるに至りました。
また、オーストラリアなど南半球から「子どもにも紫外線対策を」という声が上がり、日本でも1990年代から紫外線の害が注目されるようになり、今では日焼け止めを塗るなどのスキンケアは常識です。日本の母子手帳も、赤ちゃんの日光浴を促すことをやめ、「外氣浴」を推奨しています。日本でも、スキンケアとメークの概念が分かれてきたと言えるでしょう。
今ではスキンケアの重要性が認識されるようになっただけでなく、「外面」と「内面」が実は密接に関係していることや、化粧が人を健康にすることも広く知られるようになりました。高齢者、認知症患者、障害者などが化粧で元氣になる、「化粧療法」という言葉も一般的になっています。
被災地に見られた美しい振る舞い
私が所属するいくつかの学会の中に、「日本感情心理学会」と「日本顔学会」があります。ともに一昨年(2013年)、東北大学で全国大会が開かれました。普通は1年に2つも大会をお引き受けすることはありませんが、東日本大震災の被災地にいくらかでも経済的効果を、というのが双方の学会の意向です。そこで思い切って2つともお引き受けしました。折角なので、大会の前日には被災地を巡る慰霊行事を入れさせてもらいました。
私は今、災害研究に力を入れています。2010年、タイからの留学生を担当したことがきっかけです。タイは洪水の多い国であり、スマトラ島沖地震による津波被害が繰り返し発生してきたという歴史があります。2011年の2月、その留学生とタイの津波被災地を訪問調査し、帰国して研究をまとめている最中に東日本大震災が起きたのです。
東日本大震災の後、資生堂の社員が避難所に入ってボランティア活動を行ったことは、あまり知られていないかもしれません。たくさんの社員が、入浴も化粧もできないでいた被災者のために、ドライシャンプーやハンドクリーム・口紅・眉墨などを持って現地に入りました。
出発の直前、私から一つの提案をさせていただきました。それは、「カウンセリング・マインド」の基礎講習をさせてほしいということです。東北の被災者は遠慮がちです。正式なカウンセラーにはかえって遠慮することがあるかもしれませんが、ハンドマッサージや髪をケアしてもらっている時、リラックスして本音で語りかけて下さるかもしれません。心の準備がないと、悲しみを含んだ本音を受け止めきれず、ボランティアのほうがダウンしてしまう可能性が懸念されました。そこでカウンセリングに造詣の深い先輩の研究者にお願いして、お話を聞く心の準備・「カウンセリング・マインド」の講習を行っていただきました。このボランティアは、単に衛生や美容にとどまらず、心のケアとしての貢献度も高かったのではないでしょうか。
人は日々、朝、メークをすることで自らを励まし、夜、丁寧にメークを落としてスキンケアすることで自らを癒します。化粧とは、日常生活に組み込まれた「感情調整装置」なのです。これが震災のような非常時にも、内面を支える効果があることは明らかでしょう。
私の関心は、震災をきっかけに、外見の美しさから振る舞いの美しさへシフトしました。例えば電車待ちで列を作る行為は好ましいマナーですし、災害時、給水車の列に整然と並ぶのは究極のマナーと言えるでしょう。東日本大震災では東北人の落ち着いた振る舞いが世界から絶賛されました。しかし「次」の大災害がもし首都圏などの大都市部で発生したら、人々は東北人のように振る舞えるでしょうか。
また私たちは、被災地以外での震災ガレキの受け入れ等をめぐって、放射性物質への懸念から激しい議論が巻き起こり、被災者を二重に傷つけた事実も忘れてはなりません。避難所での心のケア、被災者の振る舞い、被災地の外での葛藤など、東日本大震災の経験を「次」に活かすための検証は、まだ道半ばだと言うべきでしょう。
日常的で小さな物事にも大きな研究テーマが
私は卒論のテーマとして、日本ではまだ珍しかった「顔の知覚」研究を選びました。人間は、他の対象に比べて、顔を覚える力が格段に優れています。何十年ぶりかで再会した同級生の顔を見分けることができるほどです。しかし顔写真の上下を逆さにすると、逆に記憶力が極端に低下します。このような、顔という対象の特殊性の秘密を明らかにするための突破口として、私は自動車のフロントビューや蝶の目玉模様のような、顔ではないが顔のように見えるものを選びました。そして、顔らしさが増すほどに顔独特の知覚特性も強くなる傾向があることを見出しました。顔と他の対象は別物ではなく、顔らしさによって「地続き」になっている、そう結論しました。
さて時期を同じくして、資生堂は化粧の心理学的影響を含めた化粧の科学を総合的に行う「ビューティーサイエンス研究所」を発足させようとしていました。テーマがマッチしたことが幸いし、資生堂ビューティーサイエンス研究所に就職することができました。
この研究所には、様々な専門を持つ人々が100名ほど集まりました。リラクセーション効果のあるスキンケア商品の開発などに携わりましたが、リラックスについて考えるということは、ストレスについて考えることに他なりません。それでストレスを研究対象とし、国の助成を受けることもできました。リラックスする香りの開発、アロマコロジー研究も行いました。しかし年齢とともに、研究ではなく管理の仕事が増えることになりました。「研究の現場から遠ざかりたくない」という思いが増し、古巣の東北大学の教員公募に応募し、その結果、大学の教員となり、今日に至ったわけです。大学に来ても、研究や教育以外の「仕事」がたっぷりあったのは誤算でしたが(笑)。
最初の「なぜ男性は化粧をしないのか」という疑問に戻ると、大きな流れとしては男性の化粧も復権しつつあるように思えます。メークではなくスキンケアであれば男性も意外としていますし、テレビではメークをしたマツコ・デラックスが大活躍しています。また化粧ではありませんが、男性も窮屈なネクタイをします。何の実用性もありませんが、「外面」に大きく関わっていますし、「内面」に及ぼす影響も小さくありません。
化粧という、一見日常的で小さな物事の中にも、このように歴史や心理の深いテーマが潜んでいます。蝶の目玉模様、ストレス、香り、そして震災。このような、全く関係のなさそうなことも、突き詰めてゆくとつながりが見えてきます。今これをお読みの皆さんも、ご自分の周囲で氣になることがあれば調べてみて、それをきっかけに学びの世界を広げていただければと思います。「学びの芽」は身のまわりのすぐそばにあるのです。
研究者プロフィール
専門=心理学
(あべ・つねゆき)1961年新潟県生まれ。東北大学文学部卒業。同大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。資生堂ビューティーサイエンス研究所、東北大学文学部助教授を経て、2010年より現職。著書に『ストレスと化粧の社会生理心理学』(フレグランスジャーナル社)、共著に『防災の心理学』(東信堂)、『化粧セラピー』(日経BP社)、『大災害と犯罪』(法律文化社)など。