研究者インタビュー

被災者に寄り添う立場からの復興を

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東北学院大学 教養学部 教授
専門=災害社会学
金菱  清 先生

2つの大震災を直接経験

 私は大阪の出身で、1995年の阪神淡路大震災と2011年の東日本大震災の両方を直接経験しています。阪神淡路の発生は1月で、大学受験が目前でした。生まれてから大きい地震の経験は一度もなく、「関西で大地震は起こらない」と言われていたのです。激しい揺れで目を覚ますと、幸い家は無事でした。ところが部屋の引き戸を開けたところ、3階からか飛んで来た材木が目の前に横たわっていました。

 私が住んでいた地域は、前年の9月に集中豪雨の被害を受けていました。災害に対して油断していたつもりはなかったのですが、まさか4カ月後に巨大地震に見舞われるとは、全く想定していませんでした。

 交通機関が未復旧だった2月初め、私は新幹線の高架橋が落ちたり家が倒壊している中を歩いて試験会場に向かいました。大学に入ると社会心理学の講義で災害が取り上げられましたが、その実例は直近の阪神淡路大震災ではなく、数十年前の新潟地震だったのです。学問では、しかるべき時間をかけなければ何かを言うことはできないという考えもあるでしょうが、私は疑問を持ちました。そこから研究者として、「災害とは何か」と考え続けることになったのです。

 仙台にやって来たのは2005年です。当時から高い確率で宮城県沖地震が発生すると言われていたので、住いを選ぶにあたっては耐震性能にも氣をつけました。東日本大震災には自宅で遭遇しました。

 外に出ても阪神淡路大震災のような建物の倒壊こそありませんでしたが、ワンセグのテレビや関西からの情報で、沿岸部が津波に襲われたことを知ります。たまたま2週間ほど前、2004年にインドネシアのスマトラ島沖で発生した地震による大津波が描かれた「ヒア アフター」という映画を見たばかりだったので、大変な被害になるだろうと思いました。

 大学は休みに入っていましたが、在学中の、また卒業したばかりの学生たちが案じられてなりません。大学には連絡がつかず、車は立体駐車場が止まって動かすことができませんでした。その後、徐々に連絡が取れるようになって、沿岸部に実家がある学生たちの安否情報も入り始めました。ほっとする一方で、私は阪神淡路大震災の経験から、この震災の記録を残さなければと考え、一週間後には動き出したのです。

聞き取りではなく被災者自らが書く

 阪神淡路大震災の報道について、私には苦い思い出があります。一つはジャーナリズムが事象の大きさばかりを追いかけて、震災の身の丈にあった全体像に迫ろうとしなかったこと。もう一つは2カ月後に東京で地下鉄サリン事件が発生し、社会の関心が一氣にオウム真理教へと向かってしまったことです。次の大規模災害に教訓を伝えるためにも、被災エリア全体の被害状況と、その後の経過を追うべきだと思っていました。

 東北学院大学には宮城県だけでなく隣県からも学生が集まっており、その出身地は、まさに東日本大震災の被災エリアに重なります。加えて卒業生であるOB、OGも、その多くが被災地に住いや仕事があるのです。このネットワークを使えば、今回の被害の全体像を空からではなく人の視点から記録し、残すことができるはずだと私は考えました。

 しかしようやく交通手段が復旧して大学へ出てみると、研究室のある建物は損傷して入れず、互いの安否確認さえも紙の名簿で行わなければならない状況です。5月にずれ込んだ授業の開始を待たざるを得ませんでしたが、1年生向けの授業で震災のレポートを求めると、たくさんの学生が切実な体験を報告してくれました。学生たちの心の傷に触れることを危ぶむ声もありました。しかし私は、人類史に残るこの災害を記録しない選択はあり得ないと考えたのです。

 幸い学生たちは、私の意図をしっかりと理解してくれました。私がさらに詳しい報告を求めたり、ご家族などへの協力を依頼したりすると、積極的に応じてくれたのです。また卒業生のネットワークも機能し、広く被災エリア全体から手記を集めることができました。ご家族を亡くされた方も書いてくださいましたし、不自由な避難先で紙さえも手元にない中、カレンダーの裏などに書いてくださった方もあったのです。こうして集まった貴重な記録の一部は、震災から1年を待つことなしに、『3.11慟哭の記録 71人が体感した大津波・原発・巨大地震』(第9回出版梓会新聞社学芸文化賞)にまとめることができました。

 聞き取り調査も有効ですが、体制を整えたり実際の作業を進めたりする間に、被災者の記憶はあいまいになってしまいがちです。被災者自身が、災害発生からあまり経たないうちに記録をすることには大きな意味があります。今回はご自身の行動を、いわゆる「5W1H(いつ・どこ・だれ・なに・なぜ・どのように)」の形で記述していただきましたが、必要に応じて補足をお願いすれば、十分に客観的で信頼できる記録になることも分かりました。そしてもう一つ、全く考えていなかったことですが、被災者の方々にとっては辛い体験を書くことが、逆に心の平安をもたらすことが分かったのです。

 

「記録筆記法」が被災者に癒しを

 被災者の心を癒すには、専門家によるカウンセリングが有効だと考えられてきました。しかし家族を失った方の中には、自分が楽になってしまうことは、亡くなった方を忘れてしまうこと、家族を失った痛みを忘れてしまうことになるのではないかと恐れている方もいらっしゃいます。「楽になりたい」けれども「自分だけが楽になってはいけない」という、相反する感情を持っているのです。そうした方にとって「自分だけが救われる」ような方法は、もう一度家族を失うことに等しく、強い抵抗を感じずにはいられません。

 ところがこうした被災者の中には、私がお願いした手記を書いたことで心の平安が得られたという方が少なくないのです。それは愛する人の死を「5W1H」に置き換えて書き、自ら推敲を加える中で、その死が必ずしも自分のせいではなかったことが確認できたり、「その死者と共に思い出し、書く」という氣持ちになれたりするからだということがわかってきました。

 こうして心の痛みを「温存」しながら書き上げた手記は、ご遺族の心のよりどころにもなっています。出版された『3.11慟哭の記録』をお届けに上がった先で、私は何人もの方から「いつでもこの本(記録)を開けたら家族が生きている」「本の中だったら(息子が)生き続けることができる」といった声をお聞きしました。私が「記録筆記法」と名づけたこの方法は、東日本大震災以外の被災者にとっても有効だと思われます。

 亡くなったはずの家族を見たり、会いにきたのが分かったり、いるのを感じたりした、というご遺族の声も、私は決して否定するべきではないと思います。家族以外でも、例えば被災地で働くタクシー運転手の中には、「亡くなった方を乗せた」と話す方が少なくありません。これは震災から4年以上経った今も死者たちのことを忘れたくないという「地域の氣持ち」の、一つの表現としてとらえるべきではないでしょうか。

 東京や被害の少なかった都市部に暮らしていると、ご遺族や、深刻な被害を受けた地域に暮らす人々の氣持ちに鈍くなることは避けられません。つい「復興を加速しよう」「5年を区切りに」といった発想になってしまいがちです。しかし被災者への想像力を失い、地域の感情や意思を無視して高台への移転や巨大な防潮堤の建設を急いでも、誰も幸せにはなれません。「もう住む人がいないから」とバス停を内陸側に移動させることが、避難先で暮らす高齢者の、「元の家の畑を耕したい」という願いを挫き、認知症を進行させることもあるのです。

 私たちは誰もが、自らの価値観や人生観、そして死生観に従って生きたいと願っています。そうであれば被災者の方々の願いにも素直に耳を傾け、その実現を図ることこそが本当の復興であり、支援なのではないでしょうか。私はこれからも「鳥の視点から」ではなく、こうした「虫の視点から」、災害について考え続けていきたいと思っています。
 

(取材=2015年11月13日/東北学院大学泉キャンパス3号館5階 金菱清研究室にて)

研究者プロフィール

東北学院大学 教養学部 教授
専門=災害社会学

金菱  清  先生

(かねびし・きよし)1975年大阪府生まれ。関西学院大学社会学部卒業。関西学院大学大学院社会学研究科博士課程 単位取得満期退学。博士(社会学)。東北学院大学教養学部専任講師、准教授を経て、2014年より現職。
東日本大震災関連の著書に『震災メメントモリ 第二の津波に抗して』、『震災学入門 死生観からの社会構想』、編書に『3.11慟哭の記録 71人が体感した大津波・原発・巨大地震』、『千年災禍の海辺学─なぜそれでも人は海で暮らすのか』、『呼び覚まされる霊性の震災学─3.11生と死のはざまで』など。

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